「ピット君? そろそろ……離してくれないかな」
 茶葉の入った缶の固い蓋を開けながら、もう一度マルスの体にしがみついてべそをかいているピットに声をかけた。しかし相変わらず定期的に鼻をすする音が聞こえるだけで、何か言う気配も、マルスの体にしがみつくのをやめる気配もない。
 ドアを叩かれたので、扉を開けたところ目を赤く腫らしたピットの姿があり、そしてそのまま自分の体にしがみついてべそをかき始め、そのまま今に至るというわけだ。勿論離してくれとは何度も言っているのだが、一向に離す気配がない。
 扉の前でしがみつかれたまま棒立ちの状態でずっといるわけにも行かず、力はこちらのほうが僅かに勝ってはいるので、ピットを引きずるような形でなんとか歩くことは出来るものの、泣いている人を自分から引き剥がすような酷い真似はマルスにはできなかった。
 ピットを椅子に座らせて自分は紅茶でも入れてあげて、それからゆっくり話を聞こうと思っているのに、紅茶を入れようとダイニングに立っている間も、ずっとマルスの体にしがみついたまま離そうとしない。火傷をするかもしれないから危ないと何度も言っているのに。
 茶葉を入れたポットの中に熱湯を注いで、カップを二つ、ポットを一つ、それと角砂糖をつめた小瓶、クッキーを数枚載せた小皿をトレーの上に置いて、相変わらず自分にしがみ付いたままのピットをずりずり引きずりながらトレーをテーブルまで運ぶ。
「ピット君」
 椅子に座ろうとさせるが、またぐすん。と鼻をすする音が聞こえただけだった。
「ほら、ピット君」
 腕を無理矢理引き剥がすと、目を真っ赤に腫らしたピットの顔が見える。指でそっと涙を拭ってあげて、もう片方の手で子供をあやすように頭を撫でてあげる。
「ちゃんと君の話は聞くから、ね?」
「……はい」
 震える声でどうにかピットも相槌を打ってくれて、椅子に座ってくれる。すぐにふたつのティーカップに熱い紅茶を注いで、その一つと、クッキーののった小皿をピットの前に差し出すと、何も言わない代わりにピットがぺこりと頭を下げた。
「砂糖はいくつ入れる?」
「みっつで、お願いします」
言われたとおりに角砂糖を三個、ピットのティーカップの中に放り込んで、自分のティーカップには一個角砂糖を放り込む。君は甘いものが好きなんだね。と声をかけると、ピットがこくんと頷いた。
 ピットから見て左斜めの椅子に自分も座り、カップに口をつける。一旦カップから口を離して、ピットの目の前に置いたカップに目配せをするとピットもカップに手を伸ばして、両手でカップを持って紅茶を飲み始める。
 おいしいかと聞くと、時折ぐすんと鼻をすすりながらもおいしいです。とちゃんと返ってきた。
 もう一度カップに口をつけて紅茶を飲む。ある程度の間を置いて口から放したカップをソーサラーに戻しピットの方を向く。ピットは泣き腫らした顔でクッキーを齧っていた。マルスが自分を見ていることに気づいたのか、顔を上げてくれた。
「それで、どうしたんだい? そんなにべそをかいて」
「パルテナ、さまが」
 その先は言わなくても分かってしまった。元々ピットが泣く理由の大半は今マルスが想像しているものであるが、今回も恐らく同じものと見て間違いないだろう。
 ピットはその敬愛しているパルテナという女神様がよほど好きなのか、たまに天界ホームシックになることがある。ホームシックになったときはいつもパルテナ様と呟いてべそをかくのだ。もうこの寮の中ではピットのホームシックなど既によくある日常の一コマなので、皆慣れてしまったのだが。
 一応辛くなったら自分のところに来るようには言ってはいるが、本当に自分の元へ来てくれるのは今回が初めてのことだった。恐らく皆の中にはピットに呆れている人も居るだろうが、別に自分は呆れているわけではなく、泣いている人、というよりは泣いている天使を放っておけないだけだ。
 ただ、そこまでピットを夢中にさせるパルテナという女神の姿をマルスは、寮内に飾られているフィギュアでしか見たことがない。
「だめですよね、ボク」
「……そんなこと無いよ」
「でも、こんなんじゃパルテナ様に見限られちゃいます」
 そう言ったピットの目から、収まりかけていた涙がまた溢れ出して、溢れた涙がカップの中の、せっかく角砂糖を三つも入れてかなり甘くなったはずの紅茶と混じりあってしまう。自分の涙と紅茶が交じり合っていることに気付いたピットが慌ててカップをソーサラーに戻した。
「もっと強くならないと、示しがつきません。だから、だめなんです」
 ピットがそう言って、目がもっともっと赤く腫れてしまいそうなほどにごしごしと強くこする。
 勿論これ以上目を腫らさせてはいけないと、マルスはあわてて席を立ち、ピットの両腕を掴んで止めさせた。目を赤く泣き腫らしたピットの顔が露わになった。その代わりに涙を遮るものが何もないので溢れた涙がぼろぼろ零れ落ちる。
「目をこすったら駄目だよ」
「大丈夫です。あとちょっと泣いたら、強くなる為に頑張りますから。マルスさんにもご迷惑をおかけしました。皆にももうこんなところは見せません。だから……」
「別にいいよ」
 ピットの言葉を遮り、腕を掴むのをやめるかわりにピットの頬に手を置いて、ぐい、と自分の方を向かせる。
「……僕の前では、弱くていいから」
 それを聞いたピットがぽかんとした顔で、それでも涙を流しながら自分を見ている。
「でも」
「気にしなくていい」
「その、気持ちは嬉しいです……でもボクはこんなことを言っておいて、また泣いちゃいます。だから多分迷惑だと思うんです。皆だってきっと呆れていますし、マルスさんだって……」
 またピットの目からぼろぼろと、指でぬぐいきれないほどの涙がこぼれる。仕方なく絹のハンカチを取り出して、そっと涙をぬぐってあげた。
「僕は呆れてなんかいないよ。君が好きなのに呆れるものか」
「これから呆れるかもしれません」
「ありえないことを言わないでくれ」
「……本当に呆れないんですか」
 その言葉に、こくりと頷いてみせた。
「怒ったりも、しませんか」
 もう一度、頷いてみせる。
「じゃあ、お願いがあります。……もう一度言ってください」
「一度でいいのかい?」
「一度で、いいです。何度も聞いたら多分、涙が止まらなくなっちゃいます」
「わかったよ。……君は、僕の前では弱くていい」
 俯いたピットの口から、ありがとうございますと感謝の言葉が漏れる。そのすぐ後に押し殺したような嗚咽が聞こえて、ぼろぼろと涙がこぼれる。
 また涙をハンカチで拭ってあげると、嗚咽がもっと大きくなってゆく。マルスは黙って、涙を拭い続けた。
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。