今この空間には、かりかりとペンを動かす音と、僕の口から漏れるため息の音しか響いていない。
 とにかく僕は今、集中して一刻も早くこの書類を片付けないといけない。明日は年に一度のクリスマスで、クリスマスが近いのにこうして公務を必死にこなしているというのも、なんだか虚しいものがあるが、だがクリスマスパーティーに置いてけぼりなど絶対にごめんだ。その為には一刻も早く公務を終わらせなければならない。
 皆も今はまだ明日の料理の仕込みをしているか、ツリーを飾っているかのどちらかだろう。まだ間に合う。あとは机の上に乗った書類を全てこなすことが出来ればいいのだ。
 一心不乱にペンを進め、書類に目を通し、サインをして良いものにはサインをする。
 非常に単調な作業だ。それを何度も何度も気が遠くなるまで繰り返す。焦燥感のあまり手に力がこもり、紙の上で羽ペンを動かすかりかりという音が、いつのまにかがりがりという音に変わっている。筆圧も凄まじいことになっていた。
 最後の一枚の書類を手に取る。ただ最後と言っても今朝のノルマの分の「最後」なので、勿論これで終わりではないことが虚しいのだが。
 一通り流し読みし、サインが必要だとわかり、めいいっぱい綺麗な文字で「マルス・ローウェル」とサインした。
「終わった……」
 椅子の背もたれにぐったりと体を預けて、ゆっくりと深呼吸をした。椅子に座ったままで固くなった体をゆっくりと伸ばして、横のカップを手に取るが、カップの中は空で、何も入っていない。
 その時ちょうどこんこん。と扉を叩く音がした。入っていいよとその音に答えると、カップの乗ったトレーを持ったリンクが部屋に入ってきた。
「終わったの?」
「終わったといっても今朝のノルマだけだよ。君は?」
 やれやれといった風にリンクは肩をすくめてみせ、
「少し休憩を貰っただけ。こっちもまだ終わってない」
「頑張って。料理、楽しみにしているよ」
「マルスもわざわざクリスマスの前日に公務なんてさ、災難だよね」
 トレーを適当なところに起き、自身は机の縁に座って、リンクがさっき僕がサインをした書類に手を伸ばす。
 書類を目の前に持ってきてぺらぺらと流し読みをした後、本人には悪いがよくわからなかったのだろう。リンクは思い切り顔を顰めて、元あった場所に書類を戻した。
「国のためだからしょうがないよ。何もしないで遊んでいられるなんて、そんな甘ったれたことはしていられないだろう?」
 所々散らばった書類を広い集めて、角をそろえて端に起いた。
 リンクが僕の横に湯気の立つカップを起き、空のカップを回収する。ありがとうと礼を言って、カップを手に取る。
 カップに口を付け、ちびちびと熱い紅茶を飲むと、わずかな甘みと渋みを舌に残していく。テーブルの上に腰掛けているリンクの方に目をやると、リンクももう一つのカップの紅茶を飲んでいるところだった。
「王子様は大変だねぇ。ぼくには出来そうにないや」
「ほとんど君のために頑張っているんだけどね……?」
「そんなのわかってるってば。ありがと、マルス。お昼も持ってこようか?」
「頼むよ……食堂に行く時間も惜しい」
「わかった。軽く食べられそうなものを持ってくるからさ」
 少し中身の減ったカップを横に置き、テーブルの紙の山から一枚の書類を手に取り眺めれば、リンクもそれを上からのぞき込んでくる。
「もう再開するの?」
「休んでなんかいられないだろう? 少しでも早く終わらせたほうがいいじゃないか」
「そりゃそうだけど、もうちょっと休んでもいいと思うな」
「大丈夫だよ、それに……」
 そこまで言ったところで、図々しくテーブルの上に直接腰掛けたままのリンクの服を掴み、強引に引き寄せキスをする。
 長い時間触れるだけのキスをして、ゆっくりと唇を離す。ぽかんとしているリンクに、僕は微笑みかけて、
「頑張りたいんだ。……君と一緒にいたいしね」
 リンクは照れを隠すように笑い、
「うん、頑張れ。待ってるから」





「あーあ、なくなっちゃった」
 今にもカップに落ちそうな、紅茶の最後の一滴を名残惜しげに見つめながら、リンクがそう呟く。
「また淹れておいでよ」
 僕がそう声をかけると同時に、最後の一滴がカップの中に落ちていった。リンクが空のカップを軽く振り、紅茶はもう一滴も入っていないことを確認すると、椅子から立ち何杯目かの紅茶を入れるためにキッチンに立つ。
 僕も目線をテーブルの向こうから書類に戻して、再び大量の書類との格闘を重ねる。
 結局朝から晩までずっとこの書類の束に取り組んでも、一向に終わる気配はなく、このままだと徹夜でずっと書類と格闘を続けても、朝までに終わるかどうかと言ったところだろう。
 ずっと長い時間椅子に座って大量の書類に取り組んできたせいで、集中力が途切れてしまうことが多くなってきたし、ずっとペンを持ち続けていたせいで手も痛くなってきた。目も大分疲れてきたのか時折しょぼしょぼとする。もしかすると徹夜をしても終わらないかもしれない。
 書類の整理は全て、夕暮れ頃に明日の料理の仕込を終わらせ部屋に来てくれたリンクに任せてもらって、自分はずっと書類をこなすことだけに集中しているのに、それでも一向に終わりは見えなかった。
「(……諦めるのも、一つの手かもしれないな)」
 間に合わせたいという気持ちは勿論あった。だが徹夜で片付けたはいいが一睡も出来なかったので、クリスマスパーティーの間に倒れてしまう。なんてことになってしまっては元も子もない。そうならないように少し早めにクリスマスパーティーの席から抜け出して、その時間を使って書類を片付ける。そういうのも、一つの手かもしれないと思った。
 そう思うと急にやる気がうせてしまったのか、無意識の内にペンの進みが遅くなる。
「ねぇ」
 キッチンに立つリンクに声をかけられる。僕に背を向けているので、その表情はここからでは見えない。
「もしかして、終わりそうにない?」
「……そんなことはないよ。頑張ればきっと、朝までに終わる」
「それも無理をして、だろ? マルスが倒れたりしたら大変なんだからね」
 どうやら、リンクも丁度同じ事を考えていたらしい。
 僕が、朝までに終わらせることが出来ないかもしれない。終わらせても、一睡も出来なかったので途中で僕が倒れてしまうかもしれない。
 そう言われてしまうと、意地でも終わらせたくなってしまう。同じ事をついさっき僕も考えていたなんて言えずに。
「別にさ、終わらなかったとしても……誰も怒らないよ?」
「僕に終わらせるなとでも言いたいのかい? 朝にも言っただろう、頑張りたいんだ」
「マルスが倒れることになっても? 倒れたマルスを看病するのなんてごめんだよ」
 やかんが勢いよく湯気を噴き出し、音を鳴らして僕らの会話を遮った。
 慌ててリンクが火を止め、ポットの中に茶葉と、沸騰したばかりの熱いお湯を注ぐ。
「終わらないって決まったわけじゃない。……まだ頑張れるさ。リンクがそんなことを言うから、意地でも終わらせたくなったよ」
 喉が渇いていたことに気付いて、横のカップに左手を伸ばすが、カップの中には何も入っていないことに気がつき、諦めて左手を元に戻した。
「口だけじゃないと、いいんだけどね?」
 そう言ってリンクが、空のカップに熱い紅茶を注いでくれる。ありがとうと礼を言ってカップの紅茶に口をつけるが、十分に蒸らしきっていないせいか、あまりおいしくない。
 その気になればなんでも出来るわりには、ひとつのことに対しいちいちこだわらない性格のリンクは、紅茶の入れ方が雑だ。ただこんな状況では自分が代わりに紅茶を淹れる時間すら惜しいし、今更リンクの紅茶の入れ方に口を出すつもりもないので、諦めて紅茶を飲み続ける。
 三分の一ほど紅茶を飲んで、カップをソーサラーに戻す。再び書類に取り組もうと目線を元に戻す前に、頬に手を置かれた。
「リンク?」
 顔を上げれば、神妙な面持ちで僕を見つめるリンクと目が合う。
「……嫌だよ。明日、マルスと一緒に居られないのは」
 そのままゆっくりと、リンクが顔を近づけてくる。僕もそっと目を閉じて唇が触れるのを待った。あと少しで唇が触れる、という所で、
「!?」
 がしゃん、とカップが大きな音を立てた。本当はさして大きな音ではなかったのだろうけど、さっきまでこの部屋の中ではなんの音もしていなかったので、カップの音はとても大きく感じられた。
 目を開けてテーブルの上を見れば、大きく中の紅茶が揺れているカップと、そのカップの近くにリンクの手が置いてあった。
 恐らくリンクがテーブルの上に手をついたはいいが、手をついた場所ににカップがあったので、手をカップにぶつけてしまったというところだろう。紅茶は零れていないので、カップの近くに置いてあった書類を汚さずに済んだことだけは幸いだと言えるが。
「ごめん」
「書類を汚されたら困る」
「わかってるよ……せっかくのいい雰囲気が台無しだ」
「やり直すかい?」
「ん、そうする」

「……頑張ってね、マルス」







 どこか遠くで鐘の音が、聞こえたような気がした。
 今日はクリスマスイブ当日なので、さしずめこれはクリスマスベルの音、といったところだろうか。
 談話室のツリーにも確か小さなクリスマスベルが飾られていたはずだ。そしてツリーに飾ったベルより何倍も大きな鐘が、ここからそう遠くないどこかで鳴っているのかもしれない。
「(……って、そんなの聞こえてくるわけないだろ)」
 そんなに大きな鐘なんてこの屋敷の中にはない。そして冬の朝は当然寒いので部屋は締め切ったままだから、鐘の音なんて聞こえてくるはずがない。どうせ空耳か何かに決まってる。
 そういうことを考えていると、次第に意識がはっきりとしてきて、カーテンの隙間から差し込む光がぼくに起きろと言わんばかりに目蓋を刺激していたことに気がつく。
 目を開けて起きようかと思ったが、どうせまだ起きる時間じゃないはずだ。多分五時か六時……まだ日が昇ったばかりの時間だろう。そんな時間に起きたってしょうがないので、二度寝をしようと、窓に背を向けるべく寝返りを打つ。
 すると、手が何かあたたかいものに触れた。眠かったので重たい目蓋を開けて確認する気にはなれなかったけど、なんだろうと気になったので、もう一度触ってみる。
 ちょうど人肌くらいの温度で、人肌みたいにやわらかい何か。さらにぺたぺたと触ってみる。ずっとそうし続けていると、少しだけその何かが動いた。
 ……もしかするとこれは、人肌のようにあたたかくて柔らかい何かじゃなくて、本当に誰かの肌なんじゃないんだろうか。さらにぺたぺたとそれを触り続ける。すると、
「……そんなに触らないでほしいんだけどな」
 ぼくと同じように寝起きだったんだろう。すぐ近くから少し掠れたマルスの声が聞こえる。
 眠気のせいでかなり重たい目蓋を、引き剥がすように開けると、真正面にマルスの顔があった。そして、今までずっとぺたぺたと触っていた何かはどうやら、マルスの腕だったらしい。
「マルス、あれ……?」
 どうしてマルスが同じベッドで寝ているのかがわからず、ぼくがわけを聞こうとするよりも早く、マルスが口を開き。
「誤解しないで欲しいんだけどね。君が僕のベッドで寝ているだけだ」
「え? ああ……そっか」
 思い出した。ここはぼくのベッドじゃなくてマルスの部屋にある、マルスのベッドだ。
 昨日の夜、料理の仕込みを終えたぼくは、イブの前日だっていうのに自国から送られてきたという書類に一人追われていたマルスを手伝っていた。サインをし終えた書類を封筒にしまったり、整理をしたり、最早食事をとったり紅茶を淹れる時間すら惜しいマルスの代わりに食事を持ってきてあげたり、紅茶のおかわりを淹れてあげたり、とにかくぼくに出来ることは一通りやったのではないか、と思っている。
 それでも昨日は朝から晩までずっと書類とにらめっこを続けていても、紙束は一向に片付く気配がなく、一度はぼくも諦めることを薦めたくらいだ。
 それでもマルスは諦めようとはせず(むしろぼくがそう薦めたせいで意地でも終わらせたくなったらしい)、すっかり夜も更け眠くなってしまったぼくが勝手にマルスのベッドで寝た後も、必死に書類と格闘を続けていたのだろう。そして、今こうしてぼくと同じベッドで寝ているということはつまり……
「終わったの?」
「うん、終わったよ。勿論全部ね」
「そっか、よかった」
 右手をそっと、マルスの頬に置いて、指先で髪を軽く梳く。
「やっぱり、マルスと一緒に居られないのは嫌だしね」
「……心配かけて、ごめん」
「マルスが謝ることじゃないだろ? 何時に終わったの?」
「一時間くらい前かな。そのまますぐに寝て、さっき君に起こされた」
 くす、と小さく笑って、額と額をこつんと合わせる。もしかして怒ってるのとぼくが聞くと、マルスは穏やかに笑って、怒っていないよ。と答えてくれた。
「じゃあ、寝たばっかりか。まだ眠いだろ?」
「そうだよ。君が起こさなければ、もっと寝ていられたのに」
「やっぱり怒ってるだろ」
 ふふ、とマルスの含み笑いが聞こえる。やっぱりマルスは王族と言うこともあってか、本当に上品な笑い方をする。
「僕が君に本気で怒ったりするわけないだろう? ただの冗談だよ」
「……わかってるよ。まだまだ寝るんだろ?」
「ああ。時間になったら起こして欲しいんだけど……」
「大丈夫だよ。ぼくももう少し寝るけど、マルスはそのままずっと寝てていいよ。パーティーの前になったら起こすから」
「助かるよ。ありがとう」
 疲れているだけあって、やっぱりマルスはとても眠いんだろう。あまり口を大きく開けないようにしていたが、欠伸をしている。そしてもう一度、額と額をこつんと合わせて、
「うん、おやすみ」
 どこか遠くで鐘の音が、聞こえたような気がした。





 空いていた椅子にどかりと腰を下ろし、そのままぐったりと背もたれに体重を預けて、大きく溜め息を吐く。
 体が少し重く感じる。それなりに長い時間眠っていたつもりだったけど、それでも体の疲れはまだまだ抜けきっていないようだ。
「お疲れ様」
「……ありがとう、リンク」
 僕の前に立っていたリンクがグラスを差し出してきたので、それを受け取る。中にはジュースが入っているようだが、乾杯の前なのでまだ口をつけるわけにもいかず、隣の椅子の上にグラスを置いた。
 今から一時間ほど前に、時間だからとリンクに起こされるまで、僕はあれからずっと泥のように眠っていた。
 あの後そのまま目を閉じてから、次に僕が目を開けたとき窓の外はすっかり暗くなっていたので、夢も見ないほど僕はぐっすりと眠っていたということになるのだろう。僕は寝起きが良い方だと自負しているが、そんな僕でも、今回ばかりは起き辛いと感じてしまった。それほど寝不足だったのだろう。
 勿論それまでが決して楽ではなかったとはいえ、こうしてこのクリスマスイブの為に煌びやかに飾られた談話室や、テーブルの上に置かれた豪勢な料理を見ていると、やはり頑張り続けた甲斐があったな、としみじみ思う。喉が渇いていたのか無意識の内に、椅子の上のグラスに手が伸びていたことに気付いて、あわてて僕は手を引っ込めた。
「まだ眠そうだね」
「そう見えるのかい?」
「うん、目がちょっととろんとしてる。くまも残ってるし」
 手にグラスを持ったままのリンクが、空いた手で僕の目の下をなぞる。
 こんな所を誰かに見られたら、冷やかされてしまいそうだと思ったが、誰も自分達のことを気にかけていないのか、そうしてくる人は居なかった。
「……早めに寝ることにするよ」
「うん、それが一番だよ。マルスが倒れたりしたら嫌だからね」
「まだそれを引っ張るのかい?」
「マルスこそ、心配してたのにそれはないだろ?」
 互いにそう言い合って、最後におかしそうに笑った。
「とにかく、よかったよ」
 リンクが、自分の持っていたグラスを僕の前に突き出した。
「乾杯はまだだろう?」
「大丈夫、このくらい別にいいだろ?」
「……そうだね」
 僕も隣の椅子に置いていたグラスを手に取り、前に突き出す。

「メリークリスマス」
 二つのグラスがぶつかり、かちゃん、と音を立てた。
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