「マルス、ただいま戻りました」
 自室の扉を開けて、日頃自主的に行っている剣の鍛錬から戻ってきたロイは、部屋の中にいるであろう人に声をかける。
 しかし返事は返ってこない。部屋にいないのだろうかと思って辺りを見回したが、やはり誰もいない。しかし、ベランダへと続く窓が開け放しになっていた。
「マルス?」
 ひょっとするとそこにいるのかもしれない。そう思ってもう一度、名前を呼んでみる。しかしやはり返事はなかった。
 泥棒なんてまず入ってこない、というよりこの不思議な世界に泥棒なんているかどうかとはいえ、流石に窓を開け放しで外に出るような無用心な真似はしないだろう。聞こえないのだろうか。
 とりあえず腰にかけていた剣をベルトから外して、テーブルの上に置く。三つあるはずの椅子が一つなくなっていた。マルスがベランダに運んだままなのだろうか。鎧とマントも外そうかと思ったが、さすがにそれは後で良いだろうと思い、ベランダの方へ足を進める。
「あ……」
 思った通り、マルスはベランダにいた。
 ベランダに椅子を運んで、どうやら椅子に座ったまま寝てしまったようだ。
 起こさないよう足音をたてずにそっと近付いて、マルスの目の前まで来たところで膝をつき、上目遣いでマルスの顔をじっと見つめる。
 綺麗な顔だ。と思う。遠くから見ても分かるほどマルスが綺麗な顔をしていることぐらいよく知っているが、こうして近くで見ると顔のパーツ一つ一つが綺麗に整えられている。
 そんな綺麗な顔をじっと見つめていると、胸の奥がきゅっと締まるような気持ちになった。その気持ちで自分は今、この人が好きなのだということを、再確認できた。
 これだけ見つめられていても、全く起きる気配が無く、死んでいるのかとさえ思わせるほどだった。しかしよく耳を澄ますとすぅ、すぅ、と規則正しい寝息が聞こえてきて、マルスがちゃんと生きているということが分かる。
「(こんなに、無防備に)」
 戦場なら、こんな風に無防備に寝るなんてできない。それはロイもよく知っている。
 自分の命を狙う者が何人も居るような状態では、味方に囲まれていてもぐっすり眠ることすら難しい。一応、マルスがどれだけ辛い思いをしてきたのかは、同じような経験をしてきたロイにはよくわかっているつもりだ。当の本人は同情を嫌うけれど。
 だからこそ、マルスがこんなに無防備に寝ているのは非常に喜ばしいことであって。
 この不思議な世界で、元の世界での辛かった記憶を忘れて、身分を忘れて、自由に生きている。自分の好きな人のストレスがなくなるのなら、それに越したことはない。
 マルスの頬にゆっくりと手を伸ばす。頬に触れても起きる気配がない。よほど深く眠っているようだ。睫毛が一本一本数えられるほど、マルスの顔が近くにある。こんな機会、普通に生活していればまずないだろう。
 このままでいたい。このままでいさせてほしい。
 時よ止まってくれと、心の中で呟いた。
「(今なら、ずっと触っていられる)」
 マルスと同室とはいえいつもなら、手さえまともに触れられない。だがこのままなら、しばらくの間触れていられる。
「(今なら……)」
 大丈夫なのだ。寝ているんだから、何をしたってわからない。そう、今なら。
 何を思ったのか自分は今、マルスに顔を近づけている。何をしているのか自分でもよく分からない。でも、普通ならばやってはいけないことをしていることだけは確かだ。
 寝息がもっと大きく聞こえる。微かな吐息が当たる。碧眼を隠している目蓋の睫毛がよく見える。
 マルスの唇に、自分の唇を近づける。寝ているから何をしたって分からないのだ、これくらいしていたって、いいだろう。石鹸か洗髪剤のにおいだろうか、柑橘系の爽やかなにおいがする。一方自分はついさっきまで剣を合わせて戦ってきたばかりなのでちょっと汗臭いかもしれない。
 あと少しで互いの唇が触れる。マルスと口付けをすることが出来る。あと、少しで。
「(……何をしてるんだか)」
 唇が触れる寸前で我に返り、顔を離した。恋人同士ならまだしも、寝ている人に口付けをしようとしているなど。確かに自分はこの人のことが好きで好きでたまらないけれど、それでもこんなことをしようとするなんて自分でもどうかしている。
 運悪く目覚めていたなら、酷く驚いていただろう。なぜなら自分はまだこの人に好きだとも伝えていないのに、あんなことをしようとしていたからだ。
 この人は自分のことをよく気にかけてくれる弟か後輩のように思っているだろう。さっさと思いを伝えてしまえばいいと頭の中のもう一人の自分は言うけれど、自分だって今までもこれからもそういう風にこの人の隣に居るつもりだし、それでいいと思っている。この選択は間違ってなどいない。そう、信じたい。
「……う、ん」
 マルスが身動ぎをして、今にも起きそうだ。さっきのせいだろうか。もう顔は離して、椅子の前に膝をついているので怪しまれはしないけれど、後ろめたさからかちょっと驚いてしまった。
「マルス」
「ん……ロイ?」
 優しく声をかけた。マルスは目を開けて、ロイと目が合う。目の前にロイが居ることに少し驚いているようで、ぱちぱちと何回か瞬きをした後目をこすっている。
「もしかして僕、寝ていた?」
「ええ。とても気持ちよさそうに寝ていました」
「そっか、寝ていたんだ。今日はよく晴れていたし風が気持ちよくてね、椅子をベランダに持って行って日向ぼっこを……あれ?」
 そう言って、ロイの後ろの風景を見ていたマルスが首をかしげる。
「どうやら天気が変わる位寝ていたみたいですね。なんだか雨が降りそうな天気ですよ?」
 後ろを向くと、天気が良いとはとても言えないような灰色の空が広がっていた。もう少ししたら雨が降りそうな天気だ。確かに一時半辺りに食堂で遅めの昼食を取った時には空は綺麗に晴れていたと思う。マルスはその時にベランダに出て、それからずっと寝てしまったのだろう。
 ちなみに今は四時半だ。マルスは三時間ほど寝ていたということになる。
「そうだね、夕立が来そうな天気だ。……そんなに寝ていたのか」
「昨日遅くまで公務の書類を片付けていたじゃないですか、それで眠かったんでしょう?」
「それは昨日までに片付けないといけなくて……もしかして僕のせいで眠れなかったかい?」
「少しだけですが。羽ペンの音と、ランプがついていましたし」
 そう言って、昨日の夜遅くまで書類に取り組んでいたマルスの姿を思い出す。ロイの睡眠を妨害しないように電灯ではなく小さなランプに明かりを灯して、その明かりを手元に置いて出来る限り音を立てないように書類に取り組んでいたマルス。
 小さな明かりに映るマルスの影。普段紅茶ばかり飲むマルスが眠気覚ましのためだろう、珍しく煎れていたコーヒーの香ばしい匂い。寝ぼけてはいたがそれなりに覚えている。
「君が寝付いてから始めたつもりなんだけれどな。起こしていたんだね」
「いえ、その時はまだ寝ていなかったので大丈夫です。それにちゃんと寝ましたから、マルスみたいに昼寝もしてませんよ」
 ちょっとだけ嫌味も言ってみた。マルスもそれにはひどいなと笑いながら返してくれた。どうやら、起きる直前にロイがしていたことには気付いていないようで、心の中で安堵のため息を吐いた。
 遠くから雷鳴が響く。空を見ると、さっきよりも雲の色が濃くなっている。どうやら本格的に雨が降りそうだ。
「夕立が来そうです。部屋に戻りましょう」
 そう言って二人とも立ち上がり、マルスが持とうとしていた椅子を、僕が持ちますと言ってロイが部屋の中に運ぶ。マルスは少しだけ不服そうな顔をしていたが、部屋に入ってすぐに、何かに気付いたのか、
「ああ。ロイ、それと……」
 もしかしたら、マルスは「あれ」に気付いていたのかもしれないと、心臓が跳ね上がった。マルスはそんなロイの動揺には気付かないで、
「起こしてくれてありがとう。一緒に紅茶でも飲もうか」
 自分が恐れていた言葉ではなく、ただただありふれた感謝の言葉を口にした。やっぱり深く眠りについていただけあって、ロイがマルスにしたあのことは知らないのだろう。
 ただ、それに対してもう一度心の中で安堵のため息を吐く一方で、どこかがっかりした気分の自分が居る。もしもあの時起きていたのなら、覚えていたのなら、それはすなわち自分が隠し続けている想いにマルスが気付くチャンスでもあるということで。
「(何を考えているんだ、僕は)」
 この想いについてはずっと隠し続けていくと決めたはずなのに。自分たちは男で、やがて二度と会えなくなる日が来るのだ。そうでなくても自分たちは立場上血を絶やさない為に、いつかは必ず妻を娶って子を作らなければならない。始まる前から実らないことが決まっている想い。この想いは、伝えないことが正しい選択なのだ。彼のためにも、そして自分のためにも。
 だが、もしも気付いていてくれたのならどうなっていただろう。気持ち悪がられていただろうか。嫌われていただろうか。……あるいは。
「ロイ、どうかした?」
「あ。いえ、なんでもありません」
 既にマルスは紅茶を入れるために薬缶に水を入れ火にかけて、お茶菓子が残っていないか棚を漁っていた。ずっと椅子を持ったまま窓の近くに立ち尽くしていたロイを不思議に思って声をかけたのだろう。あわてて椅子をいったん置き、窓を閉めて、椅子を戻しに行く。
「(やめよう。そんなことはありえないんだ)」
 椅子に座って、マルスがテーブルの上に置いてくれたココアクッキーをひとつつまんで、かじった。クッキーはほんのり甘いがぱさぱさしていて、すぐに飲み物が欲しくなる。

 遠くからまた、雷鳴が響く。
 ロイはキッチンに立つマルスの後姿を眺めながら、それを聞いた。
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