「止まれ」
 言われたとおりにしなければ、と頭が判断を下すよりも前に、彼に声をかけられたという驚きによって足が止まる。
 俯いたままの顔を少しだけ上げてくれたのか、彼の顔を覆っていた銀髪が僅かに揺れていた。
「何故お前は、いつもこの時間におれを見つめている」
「え? ええと、僕は……」
「お前の足音は知っている。だが、おれはお前の名前を知らない。声も、たった今初めて聞いた」
 こちらに語り掛けているはずなのに、彼は一向に僕と目を合わせるどころか、その顔を上げようとする気配もない。しかし、彼は依然としてはっきりとした口調で僕に喋り続ける。視線どころか顔をこちらに向けることすらしないのに、口から発せられる言葉ははっきりと僕へ向けたものだとわかる。なんだか妙な感じだ。
 それにしても何故、彼は目を合わせるどころか顔を上げることもなく、僕がずっと彼を見つめていたことに気が付いたのだろう。
 元々居た世界からマスターハンドに呼ばれ、ここを訪れてから日の浅い僕にとって、この世界には本当に不思議なものしかなく、そして不思議な人たちだって沢山居る。
 そういった「不思議な人たち」は、一度戦えば大体はどのような人物かわかるし、戦っていない時ならば、大体の人には気兼ねなく声をかけることも出来る上に、向こうから声をかけてもらえることもある。僕はそれを繰り返して、この世界にはどの世界からどんな人たちが来ているのか、少しずつ理解していった。
 だが、この世界にはまだまだ知らない人やものもある。今僕の目の前に居る彼が、その一人だ。
 彼がいつもこの時間に、この場所に居ることに気付いたのは、およそ一週間前のことだ。
 中庭の隅にある、いつも薄暗くて湿っている場所。少し黴臭い匂いがして、雨が降るとすぐに地面がぬかるんでしまう。今日も、昨日の夕方にひと雨来たせいで、まだ地面がぬかるんでいる。マスターハンドの魔法によって手入れが行き届いている屋敷の中でも、とてもじゃないが綺麗とは言い難いところだ。そんな場所で、毎日彼はそこで特に何かをしていると言うわけでもなく、ずっと俯き、同じ方向を向いて立ちつくしているだけだった。
 変か、変でないかと言えば、かなり変だ。
 この世界には変わった人どころか、僕が今まで元の世界で生きてきた中で見たことのないような生き物も沢山居たが、彼は長い耳を除けば外見は僕と同じ人間だ。顔はいつも俯いているせいで髪がかかってしまい見ることはできず、髪や服の隙間から覗く肌は、びっくりするほど血色が悪い。
 それと心なしか、背丈や着ている服、先ほど聞いた声がリンクに似ているような気もする。あの長い耳も、リンクと同じものだ。前に彼とリンクがここで話しているのも見かけたことがあったから、彼もリンクと同じ世界から来ている人間なのかもしれない。ここに来てから日が浅いせいか、まだ僕は彼の話をリンクから聞かされたことはなかったので、単なる憶測なのだが。
「お前は新しく来た人間か。名前は」
「僕はマルス、という。君は?」
「ダーク」
「よろしく、ダーク。……君もここのファイターなのかい? ステージどころか、ここ以外の場所で君を見かけたことがないけれど」
「おれは、ここにしか来ない」
 そこまで言い、徐ろに彼が俯いたままの顔を上げた。彼の顔を覆っていた髪が大きく揺れる。リンクは確か金髪を後ろで束ね、その上から帽子をかぶっていたが、彼は帽子をかぶらず、髪も束ねずに下ろしたままなので、同じ髪の長さでも彼の方がずっと長めに見える。
 髪の隙間から見える、温かみを感じられない血色の肌。それ以外の目鼻立ちなど顔のパーツ自体は概ね想像通り、リンクととてもよく似ている。やはり彼はリンクの兄弟なのかもしれない。
「……!」
 そして、思わず息を呑む。
 彼の顔で何より目を引いたのが、髪と髪の間に、閉ざされたままの両目を覆うようにしてある、大きな古傷だ。剣などの刃物で目を抉られた傷のように見えなくもない。
「(これじゃ、きっと……)」
 古傷を見ただけでもわかる。恐らく、その目が開くことはもう二度とないのだろう。そしてその目に光が映ることも、また。
 彼は目が見えないのだ。一般的にいうところの、全盲。
 こちらに話しかけているのにずっと顔を上げてくれなかったのも、同じ場所ばかり見続けていたのも、彼が目の見えない人間だとすれば理解できる。そして僕が彼を見つけるまで、リンクが彼のことを話してこなかった理由も、それを見て大方理解した。
「それほど驚かないのか」
「……多少驚きはしたが、僕も戦場を経験してきた身だ。戦いの中で手足や目を失う人間も、それなりに見てきた。君は両目とも見えないのか」
「そうだ」
「目が見えないなら、何故僕が毎日この時間に君を見ていると気が付いた? 聴力や嗅覚があるにしても、流石にそこまでは……」
「目の見える人間にとってはそうだろうが、目の見えないおれにとっては難しいことでもない。お前は恐らく、リンクと同じくらいの体躯の男だな。真っ直ぐしっかりとした足取りをしていて、いつも泥濘を避けて歩く。今日は泥濘が多いのか、ここまで来るのに時間がかかったな。……それと、今日はここに来る前に、ピーチと話していただろう。桃の匂いがする」
 驚いた。
 確かに昨日雨が降ったせいか、この辺りは今もまだぬかるんでいて、出来る限り靴を汚したくない僕は、ここまで泥濘を避けて歩いてくるのは大変だった。
 歩き方もそうだ。子供の頃に王族としての立ち振る舞いとして、歩き方を初めとした細かい所作まで厳しく躾られた経験があってか、僕は今も無意識の内に胸を張り、しっかりとした足取りで歩く癖がついている。それにここに来る直前まで、たまたま会ったピーチ姫と少し話をしていたのも本当だ。
 彼の言っていたことは、全て合っていた。
 だが、目が見えないのにこんな短期間でそれがわかるものなのだろうか。
 視力や聴力など、五感のいずれかを失った人間は、その失った能力を補うべく、それ以外の五感が発達していく。――僕の医学の知識は応急処置の心得がある程度だが、過去にそういった話を衛生兵から聞いたことがある。
 それゆえ彼もおそらく人より発達した聴力や嗅覚を駆使し、人の声や足音、またはにおいなどで、個人個人を識別しているのだろう。
 僕や僕以外の人間は、勿論それだけではないものの、主に視覚を使って人の顔や体系を記憶し、個人を識別する手段としている。しかし彼は目が見えないので、視覚以外の五感で識別しているというだけ。
 理屈で考えればわからなくもないし、実際に彼はそれを当たり前のようにやってのけているのだが、五感がすべて正常である僕には、視覚ではなく、聴覚や嗅覚で個人を識別している人の世界は、簡単には想像できない。
「でも、何故毎日ここへ?」
「……ここは、おれが居た場所に似ているから落ち着く」
 彼がそう言うものだから、僕も辺りを見回してみる。
 ぬかるんだ土に、黴臭く湿った空気。昼間でも常に日影が差しているせいで、植物らしい植物はなく、ところどころに苔むした石が転がっているくらいだ。
 彼にとってはそうではないのだろうが、出来れば僕にとっては長居したくない場所だ。元々彼がどのような場所に居たのかはわからないが、良い所で無かったことだけは確かだろう。
「リンクに手を取ってもらって、ここへ来ているのかい?」
「ここなら一人でも来ることができる」
「どうして? ……目が全く見えないのだろう?」
「覚えてしまえば簡単だ。部屋を出、左におれの足で五十六歩、すると壁に突き当たるので、そこから右に二十二歩歩き、左を向けば十六段の階段がある。それを全て降り、真っ直ぐ四十八歩歩けば、この場所に出るドアがある。ドアを出て左斜めに六十八歩ほど歩けば、ここに来ることができる」
 矢継ぎ早に流れてくる言葉たちに、頭が混乱しそうになる。
 言葉そのものの意味は理解できるが、それが何を指し示すのか、すぐには理解できなかった。
「ええと、つまり……自分の歩幅をほぼ一定にして、行きたいところまでの歩数を記憶しているのかい?」
 さもそれが当たり前であるかのように、彼が頷く。
 僕にとっての当たり前は彼にとってそうではなく、そして彼にとっての当たり前は、僕にとってそうではないもの。たったそれだけのことなのに、なぜこんなにも現実味の無いものに感じられるのだろう。
「これを聞くとお前たちはいつも驚く。確かにこの場所は広いが、覚えられないと言うことはないのに」
「何故僕が今驚いたと?」
「お前が息を呑む音がした」
 手を喉にやる。やはり不思議だ。
 確かに息を呑むとき、僅かに喉から音がするのは僕も知っているが、人の耳でそこまで聞き取ることが出来るものなのだろうか。
「そこまで出来るなら、君は目が見えなくなって決して短くないのだろう? ……いつから見えなくなったんだ?」
 その両目を抉ったような大きな古傷からして、何らかの病気や生まれつきではなく、外的要因によって彼が視力を失ったのは明らかだ。
 視力を失った理由が内的な要因ではないだけ、もしかするとそれは彼にとって話したくないものである可能性もあるかもしれない、と理由を聞いたすぐ後僅かに後悔したが、彼はとくにこれと言った素振りも見せず、
「それは、あいつが……」
 途中まで言いかけて、彼が僕の斜め後ろ辺りを向く。僕もそれに続いて振り返れば、そこには、
「リンク……」
 少し悲しそうな顔で、僕らを見つめるリンクが立っていた。
 リンクがここに来てからまだ一言も発していないのに、彼はリンクに気付いた。これもきっと、先ほど彼がこちらを向くことなく僕に気付いたように、リンクの気配や足音を感じ取ったからだろう。
 僕と目が合ったリンクは、そのままわざとらしく笑ってみせる。
 そのわざとらしい笑顔と、ダークの目を覆ったままの大きな切り傷。その二つから、今自分が聞こうとしていたことの答えが、大体ではあるがわかってしまったような気がした。
「ここに居たんだ。マルスが居ないんだって、ロイが探してたよ」
 そう言って、リンクが少しの間だけダークの方を見る。相変わらず、ダークは僕ともリンクとも目を合わすことなく、
「ここ数日いつもおれを見ていたのは、こいつだった」
「……そっか」
「リンクも、知っていたのかい? 僕が……彼を見ていたことを」
「知ってたけど、それがマルスだってことは知らなかったよ。何時ころにどの辺りから、どういう足音で歩く奴がここ数日自分のことを見てるなんて言われても、わかるわけないだろ?」
 ぼくはわかんないね、とリンクがおどけたように肩をすくめる。心なしかそれが、虚勢を張っているようにも見えなくない。
「でも、マルスでよかったとも思ってる」
「どうして?」
「頭が良いから理解も早くて、それにマルスは優しいから、きっと偏見も持たないし、下手な同情もしないだろうなって思ってる。……何より、友人だしね。まだ早いまだ早いって先送りにしてたけど、いつか話さなきゃいけないとは思ってたから、話を切り出す手間が省けた」
「ねえ、リンク。君は……」
「話すよ」
 きっぱりとした口調で、リンクが言う。
 その顔には、何の感情も宿っていなかった。
「全部、後で話すから」






赤い瞳だった。
 血のように赤い瞳だった。
 何の感情も映さない赤い瞳が、自分の心の何もかもを見透かすかの如く、こちらを見つめてきたのを覚えている。
 同時にその赤い瞳を見て、最初に抱いた感想が、『気味が悪い』だったことも、よく覚えていた。
 血色の悪い肌に銀色の髪、黒い服、それだけではなく、静まり返ったあの空間に佇む姿。
 あまり生の気配を感じさせないたたずまいの中で、瞳の赤い色だけが生の気配をありありと感じさせていた。あの赤の奥には確かに血が流れ、魂が宿っている。
 そのはずだが、あの瞳を失ったらそのまま死んでしまうのではないかと思わせる程度には。
 目が見えていた頃のダークの姿を、ぼくはそれしか知らない。
 それでも、その姿は今でも思い出せる。
 思い出せると言うよりは、忘れられないと言った方が正しいのだろう。
 自分が何をしたのか知らしめるために、この記憶はいつも頭の片隅にある。記憶はいつでもぼくを縛りつける。でも、それも仕方のないことなのだと思っている。
 もう一つ、忘れられない記憶があった。
 さっきの記憶が罪を犯す前の記憶なら、これは自分が罪を犯した瞬間の記憶だ。
 決死の形相で横に薙いだ剣は彼の剣を弾き飛ばし、その勢いは尚止まることを知らず、彼の顔、――それも両目の部分を大きく切りつけていった。
 深く、深く、
 二度と光の姿を捉えられなくなるほどに。



「だから……これが、ぼくらが一緒に居る理由」
 一通り話し終えたリンクが、姿勢を崩し、小さく息を吐いた。
 彼とテーブルを隔てた先に座っていた僕も、手を膝の上に置いて、ゆっくり深呼吸をした。深呼吸をしてから気付いたが、緊張していたのか少し肩が張っていた。
 部屋に招かれ、リンクがゆっくり、ひとつずつ丁寧に話してくれたおかげで、大方の事情は理解出来た。
 この世界に来る前の彼らは一緒に旅をしていたこと。リンクが人間である一方で、彼が人間ではないこと。
 そして、それでも共に居たいのだとリンクが強く願っていること。人と同じ感情を抱くことはできるはずなのだが、以前の彼はまともな暮らしをしてこなかったせいで、今も感情が希薄であること。
 それから、彼らがこの世界に来てから、僕がこの世界に来るまでのこと。本当ならば戦うことのできない彼がこの世界に居る資格はないのだが、マスターハンドの温情により特別に彼がここに居るのを許されていること。
 だが、これだけ話してくれたのに、リンクは彼の目についてはまだ一言も触れていなかった。
 最後に話そうと思っているのか。あるいは彼にとって、話したくないことなのか。いずれにしても、あれは彼らにとって深刻な問題であって、気安く僕から話してくれと催促をするような事柄で無い。リンクが話そうと思ってくれるまで、僕はただ待つしかない。
「……一番聞きたいことを、話してないね。ごめん」
「僕は……決してそんなつもりじゃ」
「いいよ。ダークの目は、見ての通りだ。今は何にも見えてない」
「治る見込みは?」
 彼の姿と、あの場所で彼を見つめるリンクの表情を思い出し、僅かでも彼らが救われればいい、と無意識の内に感じたのだろう。思わず、口からそんな言葉が零れる。
 それを聞いたリンクが、肩を竦めて困ったように笑った。
 あの状態から、治るように見えるか。……そう言いたいのだろう。
「それと、どうしてダークの目が見えなくなったか。マルスも、それは知りたいだろ?」
 知りたくないわけではなかった。
 むしろこれからも一緒にこの世界で暮らして、彼らとも友人付き合いを続けていくつもりなら、それは出来ることなら知っておかなければいけないことだとも思っている。
 それが、リンクにとって触れたくないものだとしても。
「……君が、話したくないのなら、何も言ってくれなくても構わない」
 先ほどの、ダークと僕が話しているのを見つけた時の態度からして、ダークの目が見えない理由にはリンクが深く関わっており、同時に出来ればそれに触れたくないと思っていることは手に取るようにわかる。
 だから、僕はリンクが内心それに触れたくないと思いつつも、それでもなお全てを話してくれようとしているのを知っていると。可能であれば僕はその理由を知り、力になれるのならなってあげたいと考えているし、すべてを知った上で君と良き友人としてやってゆきたいのだと。
 そしてたとえ理由がどのようなものであろうと、君と友人付き合いをやめるつもりも、軽蔑をするつもりもないのだと。
 言葉が多少足りていなかったかもしれないが、先程の台詞でそれを伝え、予防線を張ったつもりでいる。
「……大体の予想はついていると思うけど、ダークの目が見えないのはぼくのせい。元々ダークの目は、赤い色だったんだ。綺麗な目だったよ。血の色みたいな赤で、血の色っていうと不気味かもしれないけど、凄く鮮やかで綺麗な赤だったんだ。ぼくはその目を……本当に血で真っ赤にして、ダークから奪っていった」
 さして驚くようなことはなかった。リンクも言う通り、大方の予想はついていたからだ。
 彼の目が見えなくなったのは、リンクのせいだった。
 それゆえリンクは出来る限りダークに尽くしていて、そして、時折悲しそうな顔で彼を見る。それも僕の予想したとおりだった。
「説明したとおりダークは魔物だけど、そもそもどうしてぼくそっくりの魔物が居るのかというと、ぼくを殺すために生み出された魔物だからだ。本当に強い者にとって、最大の敵は自分自身、……物語なんかでよくある展開だろ? 自分のことを強いだなんて思ったことはないけれど、向こうにとってはそうだったみたいだ。だからぼくらは一度本気で戦って、殺し合ってる。目が全く見えない以上ダークがまた剣を取って、戦うことなんてないからちょっと想像し難いと思うけれど、ぼくと同じくらい強かった」
 何かの気持ちを誤魔化すかのように、饒舌になったリンクが少し早めの口調で喋り続ける。
「激戦だった。少しでも何かが違ってたら、結果は大きく変わっていたんじゃないかなって思ってる。でも実際は……マルスが想像してる通りかな」
 リンクも、それ以上言う必要はないと悟ったのだろう。
 戦いの結果は、リンクが勝ち、ダークは目を失った。
 視線を横にずらす。
 部屋の隅に、よく手入れのされた二対の剣と盾が立てかけてあった。
 ひとつは普段リンクが使っているものだ。もう一つは、恐らくダークのもの。
 目が見えなくなったせいでもう戦えないと言っていたが、それでもダークと自分自身の感情の為に、リンクはこの世界にもダークの剣と盾を持ち込み、こうしていつでも使えるように手入れをしているのだろう。
「そうだよ」
 僕の言葉の無い問いに、リンクが答えてくれる。
「あれで、ダークの目を奪った」
 視線を戻すことができずに、じっと僕は二対の剣を見つめ続けた。リンクが普段使っている剣と盾の方が、きちんと手入れが行き届いているとはいえ細かい傷が多い。その一方でもう一対の剣と盾には、使い込まれた様子はなく、あまり傷がついていない。
「話してくれて、感謝する」
 何を言うべきか必死に思考を巡らせた結果、こんな言葉しか出せなかった。
「どういたしまして。マルスがぼくの友達でよかった」
 リンクの言葉に、少しだけ気が楽になる。
 触れてほしくないと思っていることを、僕に話してくれてよかったと、少しでもそう思ってくれるのならば僕としても嬉しく思う。
 大方のことは僕が予想していた通りだったが、その予想は辛いものだった。話を聞く前、出来ることなら僕は予想と違うものであればいいとも願っていた。
 悲しい話だと思う。ただ、下手な同情をしてはいけないのだとも自分に言い聞かせた。彼らにとって必要なものは、同情などではない。
「ひとつ、聞きたいことがあるんだ。マルスが感じたことを、そのまま言ってほしい」
「僕でよければ」
「……許してもらえるって、思う?」
 ずらしたままの視線を元に戻す。リンクが、縋るような目でじっと僕を見据えていた。
 いくらでも待つから、僕の答えが欲しい。そう、目が訴えている。
 必要なものは、同情ではない。リンクが本当に求めているものは、この質問にこそある。
 下手なことは言うべきではないのだろうが、それこそ取り繕った言葉では、リンクの望む答えにはならないだろう。
「それは、彼の君への態度が何よりの証だと、僕は思う。彼は君を責めていない。……責めていないと言うより、あれが君の罪だと感じていないように見えたが、いずれにせよ、許すか許さないかで言えば、既に君は許されている」
 一度深呼吸をして、頭の中で整理した事柄をひとつひとつ述べていく。
「でも君は、そんな自分が許せない。彼の目から光を奪った君を、最も責めているのは君自身であり、同時に最も贖罪を望んでいるのも君だ。出来ることなら罰を与えられ、それを受け入れることで許されたい。……そうだろう?」
 リンクが僅かに目を逸らした。
 辛そうな顔で目蓋を閉じる。
 改めて、彼とよく似ていると感じた。
「マルスにはまだ話してないことがあるんだ。ダークの中の……ぼくのこと」
「彼の中の、君というと?」
「今のぼくは、ダークの目になった。目が見えなくなったダークの代わりに、出来うる限りのことを全てしてきた。今までそうするのが当然だって思ってきたし、これからもそれが覆されることは、きっとない。でもダークがそんなぼくが見えてない。目が見えなくなった後にこんな関係になったから仕方ないのかもしれないけど、ぼくがその手を取ってどんなに優しい言葉をかけても、ダークの中の記憶には自分を殺しかけて、目を奪っていた酷い人間の姿しか残っていない。たとえ笑いかけてもそれは見えていないから、ダークの記憶の中に居るぼくは、剣を手にしてダークを睨みつけている姿のままだ。……それも、ずっと」
 リンクはひたすら早口で捲し立てるが、最後の方は声が微かに震えていた。
「多分、それが罰だと思うんだ。ぼくは許されたいから、その為なら罰だって受け入れる。でも罪を許すことと罰を与えることは一緒じゃないから、許してもらえたその時に、自分の罰も全部消えて無くなるなんてことは、きっとないんだろうって」
 適当な相槌を打つことさえ憚られた。
 目の見えない彼に、してあげられることはそれこそ山のようあるのだろう。
 自らが彼の目となり、どんな時でも一緒に居て、尽くしてあげたい。決して簡単なことではないが、それでもリンクはこれからもずっとそうしていきたいと誓った。それ自体は然したる問題ではなく、事実リンクはそれを苦だと感じてはいない。
 ただ彼らの意思に関係なく、何をしたとしても決して努力が報われない部分があり、リンクはそれを酷く嘆いているのだ。
「僕は、知っているよ」
 口が勝手に動き、言葉を紡ぐ。
「君が、優しい目で彼を見ていることを。彼に微笑みかけていることを。たとえ彼が知らなくても、僕は知っているよ」
 なんの慰めにもならないとはわかっていたが、それでもそう言わざるをえなかった。
 ただ、リンクの気持ちが全て彼に届かずとも、君が彼を思う気持ちは僕にはちゃんと見えているということを、伝えたかった。
 そしてそれが僅かでもリンクの救いになればいい。そう思ったまでだ。
「マルス」
 リンクががっくりと肩を落とし、項垂れる。
 テーブルの上で組んでいた指が、微かに震えていた。
「マルスが友達で、本当によかった」
「……そう思ってくれたなら、何よりだよ」





「もう夕方だよ。そろそろ帰らないと」
「そうか」
 いつもの場所に来てみれば、ダークは昼に見かけた時と同じように、特に何かをしていると言うわけでもなく、ずっと俯き、同じ方向を向いて立ちつくしている。本人にそんなつもりはないにしても、改めて見ると本当に異様な光景だ。数日の間マルスが気になって見つめていたのも頷ける。
「まだ暖かいけど、そのうち寒くなるから」
 目が全く見えないダークは、明るさがわからないぶん、いつも肌に感じる空気で昼夜の判別をしているようだ。ある程度の肌寒さを感じたら、夜になったのだろうと思い、屋内に入りぼくらの部屋へ戻ってくる。それだけに、今日のように暖かくて中々寒くならない日は、夜になったと気付けないまま、中々帰ってこない時もある。
 それは別に珍しいことじゃないので、あまりぼくも気にしたことはないし、たとえ目が見えなくても時間の感覚はぼくらと変わらないのだから、いずれ夜になったことに気付いて戻ってくるだろうと、今日のように迎えに行こうとすることもそれほどない。それなのにどうしてか、今日は迎えに行きたくなったのだ。
 多分、自分達のことをひととおりマルスに話したせいだろう。でも、話してすっきりしたからとか、ちょっと心境が変わったからとか、それほどたいしたことじゃない。ただなんとなく、いつもより優しくしてあげたくなった。それくらいだ。
「マルスには話したのか」
「うん。ちゃんと、わかってくれたよ」
 以前一緒に他愛もない話をしたときから、なんとなく頭の良い人なのだろうとは思っていたけれど、今日面と向かって話をしてわかった。やっぱりマルスは、とても頭のいい人だ。
 ぼくは、許してもらえるのだろうか。――今まで誰にも怖くて聞くことが出来ず、頭の中でぐるぐると自問自答を繰り返していたことだ。
 マルスはそんなぼくの気持ちを汲み取った上で、ちゃんと答えてくれたのだ。こんなに頭が良くて、人としてできた友人なんてそう持てない。この友人を大事にしないと、という気持ちと一緒に、この世界に来ることができてよかったと、改めてそう思うことができた。
 許すか許さないかで言えば、ぼくは既に許されている。
 マルスはぼくにそう言ったし、その通りだと自分でも思った。事実、ダークに責められた日は今までに一度もない。そして、誰もぼくのことを責めなかったからこそ、余計に自分の事が許せなくなってしまい、こんな気持ちを抱えてしまうことになるのだろう。
「……あの、さ」
 ぼくを責めるようなことを、ダークは絶対に言わない。
 それでもあの前髪の奥にある深い傷痕は、自分の罪をありありと見せつけて、今もぼくを責め続けている。
 そこではぼくらがどう考えているかなど、関係はないのだ。事実が、ぼくにとっての罪になっているだけの話で。
「どう、見えてる?」
「何の話だ」
「教えてほしいんだ。ダークに、ぼくの姿はどう映ってる?」
 時々ダークの傍にいると、自分がどんな顔をしていればいいのかわからなくなる。
 自分がどんな表情をしていても、ダークにはそれがわからない。たとえどんなに優しい顔で笑いかけてあげたとしても、ダークにはちっとも届いていない。それを頭の片隅で考え出してしまうと、途端に作り上げた表情が崩れて、いつものように上手く笑えなくなってしまうのだ。
「見えていない」
「そうじゃなくて……なんて言ったらいいんだろう。今こうやって、君と一緒に居るぼくは、ダークにとってどう見えてる?」
「……見えていない」
「それはわかってるってば。でも、ダークの目じゃなくて、ええと……そうだ、心に。ダークの心にぼくがどう映ってるのか、教えてほしいんだ」
 服が汚れるのも構わず、地面に膝をつく。そのまま縋るようにダークの片手を握り、お願いだからと囁いた。
 俯きがちの顔を少しだけ上げて、ダークが考えこんでくれている。その口から発せられる言葉が、ぼくにとって少しでも良い意味であるよう祈った。
「何も見えなくなったせいか、まだ目が見えていた頃に見たものの姿を、上手く思い出せなくなっている」
 その言葉に少し期待をしてしまう。
 ダークが、自分から目の光を奪ったぼくの姿を、思い出せなくなってくれればいいと。
「だが、お前の姿は思い出せる。これからも忘れるはずはないと思う」
「……そっか」
 思わず肩を落とし、さらにため息が口から漏れ出る。
 やっぱりダークの中に居るぼくは、あの時ダークの目を奪った、酷い人間のままずっと変わらないのだ。
 それも当然のことだダークには何も見えていない。だからぼくの顔も、姿も覚えられないし、あの時の姿から書き換えられることもない。ぼくが笑いかけてあげることも、所詮徒労でしかないのだ。
「覚えていることが悲しいのか」
「そうだよ」
 ここで取り繕っても意味がないと、素直にダークの問いに答える。
「なぜ悲しい」
「ダークが、ぼくの顔を覚えてくれないから」
「覚えている」
「違う、そういうことじゃないんだ」
 その手を握ったまま立ち上がり、もう片方の手をダークの頬に置いた。
 ダークの頬に手を置いた時に、前髪の一部が除けられて、あの傷痕が少しだけ見えた。
「信じて」
 奇跡が起きればいい。
 奇跡が起きて、ほんのちょっとの間でいいからダークの目に光が戻って、笑っているぼくの顔をダークが覚えてくれるなら。
「あんなのじゃないんだ」
 そうすれば、ダークの頭の中にいるぼくがいつまで経ってもあの時の姿のままであることはなくなる。
 ぼくだってこんなに苦しまないで済むし、少しの間でも目が見えるようになるのは、きっとダークにとってもいいことのはずだろう。
 神様だったら、そのくらいの奇跡を起こすことなんてわけないはずだ。だから、ほんの少しでいい。ぼくらに奇跡が起きてくれたなら。
 そう考えることも、よくあった。
「ぼくは笑える。ダークがわからなくても、いつも君に笑いかけてる。あの時みたいな酷い顔を君に向けることはもう絶対にない。それだけでいいんだ。……どうか」
 信じて欲しかった。
 神様がなんの奇跡も起こしてくれなかったとしても、あんな酷い顔をもうぼくはダークに向けたりしない。せめてそれさえわかってくれるなら、もう多くのことは望まない。
「おれが覚えているお前の姿が、お前にとってよいものでないのはわかった。……だが、おれは」
「……?」
「光だと思っている。目に入って明るいと感じるものを光と呼ぶ以外に、時に人間は自分を救った者を光と呼ぶ」
 ダークがずっと俯きがちだった顔を上げ、ぼくの気配を感じ取っているのだろう、ぼくの方をしっかりと向いてくれた。
 同時に、俯きがちの顔と前髪で隠されていた傷が、ぼくの目の前に現れる。やはり胸が、少し痛んだ。
「それに倣うなら、光はお前だと思う。おれが覚えているお前の姿を、お前がよく思わないのはわかった。それでも覚えておきたい、光の姿を」
 徐ろにダークが自分の手を、ぼくがそうしているように、ぼくの頬に置いてくれる。
 とても、冷たい手だ。
 頭が、その中でぐるぐる渦巻く色んな気持ちが、すっきりしそうなほど冷たい手だった。
「ひかりの、すがた」
 ぼくは、あの時の自分の姿が大嫌いだ。
 あれはダークにとって一番酷いことをした時の姿で、何をどうしても、ダークの記憶の中で書き換えられることのない姿だ。そのせいで笑いかけてもどうせ無駄なんじゃないかって考えてしまい、ダークに上手く笑いかけられない時だってある。
 でもそれは所詮ぼくがどう思っているかの話で、ダークがどう思っているかとなれば、話は異なる。
 ダークはあの時のぼくの姿を光と言った。あれは自分を救ってくれた大事な人の姿で、決して忘れたくないと。
 それは、あの時からずっと、同じように感じ続けていることではないのだろう。
 ダークの中で、変化が起きた。
 変化が起きたから、あの時のぼくの姿は、ダークにとってかけがえのない、そして絶対に忘れたくない姿になった。
 どうして、変化が起きたか。その答えは決して難しいことじゃない。
 ぼくが出来うる限りのことをして、微笑んで、声をかけて、その手を取る。それを毎日繰り返していた結果、ダークの中で変化が起こったのだろう。
「(それなら)」
 笑いかけることは、無駄なんかじゃなかった。
 相変わらずダークが覚えているぼくの姿は、あの日ダークに酷いことをした時の姿のまま変わらない。それでもその酷い姿をダークがどう感じるかだけは、ぼくが微笑み、声をかけ、手を取ってあげる度に変わっているのだ。
 今やダークの心の中で、あの時のぼくの姿は自分を助けてくれたかけがえのない人の姿になっているのだ。
 今までに感じたことのないような奇妙な感覚に襲われ、急に膝に上手く力が入らなくなり、再び地面に膝をついてしまう。
「大丈夫か」
 音と気配でぼくが膝をついたことに気付いたのだろう。ダークもその場にしゃがんで、目が見えないなりにぼくと視線を合わせようとしてくれる。
「いいんだ、大丈夫。……それより、ダーク」
「なんだ」
 不思議そうに首を傾げるダークの背中に手を回し、強く強く抱きしめる。
 力を込めすぎて痛いと言われてしまうか不安だったが、今のぼくが普通でないことには気付いたようで、何も言われることはなかった。
「ありがとう」
 出来うる限りの笑顔を作る。
 声が震えていた。
 でも今のぼくは、今までよりもずっとずっと上手く笑えているに違いない。
 そしてこの笑顔も、たとえ見えなくたってダークにはちゃんと届いているのだ。それが、たまらなく嬉しい。涙が出そうなほどに。
「本当に、ありがとう」
 ぎゅっとダークを抱く腕に力を込める。相変わらず冷たい肌だ。
 でもこの冷たい肌の奥に、微かなぬくもりを感じられる。このぬくもりの奥には、ダークの魂が確かにあるのだ。
 この微かなぬくもりと、その奥にある命の為なら、これからもぼくは頑張れる。
 そんな気がしていた。
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