――ぽつり。
 頬に水が落ちる感覚とそのあたたかさに、意識がはっきりしてくる。
「(……?)」
 どうやらおれは横になっていたようだ。それも草原の上とはまた違う、あたたかく柔らかい布の上で横になっている。実際に使ったことは今までに一度もなかったが、人間が度々使っている寝台で寝ると、このような感じになるのかもしれない、とぼんやりと考える。
 そして今は夜なのだろうか。何も見ることが出来ない。目を開けようとするが、そこで何故か自分の顔、それも目の辺りに布が巻かれていることに気付く。
「(これは、目隠しか)」
 敵の視界を奪って止めを刺そうとする手段や、敵を捕える際に目隠しをさせ逃亡を防ぐことは、よくある手法だ。しかし視界の自由はきかない一方で、不思議なことに手足の自由はきいていた。手足は4本全て揃っているし、多少体は重いもののその全てが自由に動かせる。今は一体どういう状況なのだろう。何者かに捕えられているわりには、不思議なことが多すぎる。
 視界を塞ぐ布さえ取れれば、自分の置かれた状況がわかるはず。
 そう思い、おれが目を塞ぐ布に手を伸ばした時、
「駄目だ」
 ふと、誰かがおれの手を取った。あたたかい手だと感じる。
「触らないで。まだ傷が塞がっていないんだ」
 あやすように囁くその声には、聞き覚えがある。
 口調や声色こそ違うが、それは自分の声とよく似ていた。恐らく魔物のおれを生み出す際に元となったというあの人間が、今おれの手を取っているのだろう。
「……この布はなんだ」
「包帯だよ」
 包帯というと人間が怪我をした箇所に巻く、あの白く細い布のことだろう。
 以前命令で村を襲った時に、包帯を巻いた人間達を見たことがあるし、自分達よりも傷の治りが遅い人間は、止血や化膿を防ぐ目的で包帯を使用しなくてはいけないのだと教えてもらったこともある。しかし生憎おれは人間ではなく魔物だ。何故顔に包帯を巻いていなくてはならないのだろう。
「何故おれは包帯を巻いている」
 息を飲む音が、握られた手の先から響く。
 そのまましばらくは何の音もしなかったが、突然痛いほど強く手を握られ、
「……よく、聞いて欲しいんだ。あそこで君が意識を失った後、一度神殿の外に出てすぐにお医者様を呼んだ。傷の手当ても出来ることは全てしたし、お医者様と二人でつきっきりで看病したから、もう命に別状はない。……でも」
 痛いほど強く手を握られたかと思えば、急に握る力が弱まり、こちらからも分かるほどに手が震えている。
 人間の心と感情は往々にして複雑怪奇なものだということは、おれも十分理解している。だが、この人間のこの行動が何の感情を指し示しているのかは、何一つおれには理解できない。
「でも、ごめん。君の目はもう、二度と……」
「……見えないのか」
 その先に続く言葉は何も無かった。代わりにぎり、と歯をきつく噛み締めた時の音がした。
 どうやら自分は目が見えなくなったらしい。そして今この状況も、おれは捕えられていたのではなく、この人間に介抱されているということなのだろう。だとすれば今自分が横になっているこの場所も、人間が睡眠や病人の介抱に使う寝台の上に違いない。
「(目が、見えない)」
 そうは言われても、あまり現実味が感じられない。
 ただ、目が見えなくなった原因に、心当たりは確かにある。
 意識を失い、ここで目覚めるまで、おれはここではなく神殿の一室でこの人間と戦っていた。
 激しい戦いだったと記憶している。僅かばかりおれが押されていたが、少しでも何かが違っていれば、結果は大きく変わっていたのかもしれない。
そして意識を失う直前、おれは大きな隙を見せてしまい、そこを狙ってあいつは決死の形相で剣を横に薙いだ。
 その一撃はおれの剣を弾き飛ばし、記憶が正しければ、そのままおれの目のあたりを抉るように斬っていったはずだ。――それからのことはよく覚えていないが、恐らくその時自分は顔に大きな傷を負い、目が見えなくなってしまったのだろう。
 見えなくなったという自分の目に意識を集中させる。
 真っ暗だ。眼前に広がるこの暗闇は、二度と晴れることはないのだろう。
 それだけではない。目が見えなければまともに戦うことはおろか、敵の存在に気付くことすら難しくなる。落とした剣を拾うことはずっと難しくなるし、歩けば何かに足を取られてしまう可能性だってある。
 最早今までのようには戦えまい。魔法がある程度使えれば、多少の代えはきいたのかもしれないが、完全に見えない状態ではそれすらも難しい。
「(それなら、じきにおれは死ぬのだろう)」
 戦うために作られた命なのだ。戦えない魔物は用済みとなり、捨てられて死ぬほかない。恐らくこの人間も、治療を一通り終えればおれを捨て、また旅を再開するのだろう。
 特に何の疑問も感じることなく、そう考えた。
「……ごめん」
 その言葉と共に、握られた手の甲に何かが落ちてくる。その何かは不思議とあたたかく、まるで春の雨のように、ぽつりぽつりと手の甲に落ち続けた。
「(これは、涙か)」
 人間は悲しみや悔しさ、場合によっては喜びなど、特定の感情を強く昂らせた時のみ、目から雨の様に体液を流す。
 恐らく今自分の手の甲に落ち続けている水も、その涙に違いない。
「ごめん」
「(なぜ、泣くのだろう)」
 しかし不可解なのは、何故この人間が謝りながら涙を流しているかだ。この状況のどこに、それほどまで感情を昂らせるものがあるのだろう。
 人間の名前もその顔も、まともに憶えたためしは殆どない。今思えば自分が仕えるべき主の顔も、ちゃんと憶えていなかった。そして顔に至っては両目を失ったことで最早誰の顔も見て、それを憶えることは叶わなくなる。
 だが、今自分の手を握る人間の顔と名前だけは、辛うじて覚えていた。自分と同じ顔だった、ということもあるのだろう。
「きっと、痛かったよね」
「(おれの目に、この人間が涙を流すほどの価値はないはず)」
 あの場で対峙した時、この人間は青い瞳で、実に薄気味悪そうにこちらを睨みつけていた。しかしその左手に勇気を宿しているといつかの主が言っていただけあり、その凛としたその青い瞳は勇気に満ち、おれが今まで見たきたどの人間よりも輝いていた。恐らくあの瞳の奥にある魂も、同じくらい輝いているのだろう。魔物の自分には持ち得ない輝きが、そこにはあった。
 ……とても、こんな場所で泣き出すような人間には思えなかった。
「傷が塞がったらぼくと一緒に行こう。絶対に君を一人にさせない。あんなことをしたくせに、ぼくは今とても烏滸がましいことを言っているのかもしれない、……それでも」
「(なぜならおれは)」
 手の甲にまた涙が落ちる。
 心なしか、涙が落ちてくる間隔が早くなっているような気がする。
「君を救わせてほしい。君の目に映るはずだったひかりを、ぼくの目に映したい」
「(この後捨てられるしかないのだから)」



「……お願いだから」
「(そして、死ぬだけだ)」
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。