息を殺し、足音を極力立てないように時間をかけゆっくりと歩き、ようやく彼のベッドのすぐ傍に立つ。
 懐に手を入れて、小さな紙封筒を取り出す。封筒を取り出す際に衣擦れの音が思った以上に大きく響き、ベッドの上で寝ている彼が目を覚まさないか焦った。
「(大丈夫だ。きっと)」
 そう心の中で呟いて、手に持っている先ほど封をしたばかりの手紙を見つめる。この中に入っている手紙はもちろん、彼宛の手紙。
「メリークリスマス、ロイ」
 ベッドの上で寝息を立てる彼の枕元にそっと手紙をおいて、音を立てないように忍び足できびすを返し、ゆっくりと立ち去る。
「……よい夢を」



「ロイ、何か欲しいものはあるかい?」
 よく冷える冬の朝、朝食の席でスクランブルエッグとの格闘を続ける息子にそう声をかければ、一人息子のロイはがしゃがしゃという食器の音を部屋中に響かせるのを止め、口の横に食べかすの付いた顔を上げる。
 四歳になったロイは、最近自分も大人と同じようにフォークとナイフを使って食事がしたいと言い出し、その小さな手に大人用の食器では不釣り合いだと、自分専用に用意してもらった小さな食器を一生懸命動かして食事をするようになった。
 そのせいで毎日朝昼晩と上手く食器を扱えないロイが、がしゃがしゃと食器の音を食事の席に響かせるようになり、その上食事を終えたロイは毎回服を汚してしまうので、一日三回も服を取り替える羽目になってしまった。
 それでも、フェレの未来の侯爵を見る目はあたたかい。髪の色も目の色も、生憎母ではなく父である自分に似てしまったが、顔の造型はどこか母を思わせる。それに、性格がどちらに似るかもまだわからないのだ。
「ほしいもの、ですか?」
「ああ、たまには私も何かがしたい。何でも用意するから、好きなものを言いなさい」
 そう言ってやれば、ロイは年相応の子供らしくその顔をぱっと輝かせた。その側に立つ侍女がその微笑ましさに思わず笑みを零しているのが見えた。
「では、ぼくはかあさまにお会いしたいです」
「かあさまに?」
「はい! とうさまは、ぼくがいい子にしていればいつかかあさまに会えると言っていました。だからずっといい子でいるようにがんばってきました」
「だから、そろそろかあさまに会いたいのかい?」
「はい! ちちうえもきっと、かあさまに会えれば喜ぶはずです」
「はは、私を気遣ってくれるのか……ありがとう、ロイ」
 まだまだ幼いのに自分を気遣ってくれる息子に感謝の言葉を述べ、隣に立つ老騎士マーカスに目をやる。
 マーカスはため息をひとつ吐き、テーブルの向こうのロイの耳に届かないように、自業自得ですぞ、エリウッド様。と呟いた。
「……いけませんか?」
「あ、いや、そんなことはない。……そうだね、かあさまに会えるかどうか、私が尋ねてみよう。……さ、そろそろ先生が来る時間だ。もう行きなさい」
「はいとうさま、ありがとうございます!」
 実においしそうな表情でスクランブルエッグを食べきったロイは、侍女に汚した口と手を拭いてもらうと、椅子を飛び降り自分に向けて軽く一礼し、食事で汚した服を着替えるために自室に戻っていた。
 完全にロイの小さな足音が聞こえなくなると、エリウッドはもう一度マーカスの方を見る。
「これは……まいったね。マーカス」
「まだ幼いからとニニアン様の死をお教えしなかったのが、裏目に出ましたな。早くお教えすればよかったものを……」
 困ったように笑い、エリウッドはそっと目を閉じた。瞼の裏に映るは、今は亡きフェレ侯爵の妻であり、ロイの母親であるニニアンの姿。
「あの子にあまり辛い思いをさせたくなかったから、私はもう少しして、人の死を理解できるようになったら教えようと思っていたんだが……遅かったか」
「どうなさいますか、エリウッド様」
「そうだね。先送りにしてもどうにもならないことだとわかっているが、せめて今は……」
 我が子を騙さなければならないというのは、勿論心が痛む。
 だがそれ以上にいつの日か息子が、自分を気遣ってくれた父や従者の想いにちゃんと気付いてくれたら、という願いを込めたい。
「マーカス、少し頼みたいことがあるんだが」
「はっ、何でございましょう」

「封筒と便箋を用意してくれ。あと、そうだな……侍女を一人、誰でも良いから呼んできてくれ。字が綺麗な者だと良いんだが」





 今日はよく冷える。
 この談話室に居れば外が寒いことなど忘れてしまうほど暖かいけれど、談話室と部屋をつなぐ廊下がとても寒くて、駆け足でここに来たくらいだ。
 部屋の中をを見回す。明日がクリスマスパーティーなこともあってか、既にクリスマスの飾りがあたりで見られる談話室は、やはり人が多かった。
 部屋の一角に飾られている、大きな大きなクリスマスツリーに目が行く。この大きなツリーはまだ飾り途中なので、ツリーの下にはプレゼントの箱ではなく、ツリーの飾りが入った箱が三つほど残っていた。
 そのツリーの前に赤い髪の少年が立っていた。――僕のルームメイト、ロイだ。
「……ロイ?」
 ぽつりとそうこぼしてみたが、今僕が立っている場所からツリーまでそれなりの距離があるために、ロイに僕の声は届かなかった。
 テーブルとテーブルの間を歩いて、部屋の奥にあるツリーの方へ向かう。その間もずっとロイはツリーを見上げていて、僕がそっちに向かっていることにも気づく様子がない。
 ロイの背後に立ち、僕はとん、と軽く彼の肩を叩いて、
「ロイ? どうしたの」
「マルス……」






 十一年前のあの日、父に欲しいものはないかと聞かれた朝も確か、今朝のように寒い朝だった。
 締め切ったせいで寒さは届かず、暖かい談話室の一角に飾られた、自分の背丈より一回りも二回りも大きな、飾り付けが途中のままのクリスマスツリーを見上げながら、フェレ侯爵家嫡男であるロイは、十一年前のあの朝を薄ぼんやりと思い出していた。
 あの頃の父は公務に追われる毎日で、朝昼晩の食事の時間だけはなんとか一人息子の自分と会話する時間を作ってくれたが、それ以外の時間は書斎に篭りっきりだった。
 今ならわかるが、その時の父は本来なら食堂で息子と共にゆっくり食事を取る時間すら惜しかったはずだ。その上何を思ったかその頃の自分は、ろくにテーブルマナーもわからなかった子どものくせに、大人のようにちゃんとした食器を使って食事がしたいと駄々をこねていた時期で、まだ慣れない食器を使って服を汚しがしゃがしゃと食器をうるさく鳴らし、やたら時間をかけて食事を取っていたのだ。
 本当はそんな息子に合わせて食事を悠長に取る時間など無かったはずなのに、それでも父は毎日食事の時間になると食堂に姿を見せていた。
 あの日、父は自分に何か欲しいものが聞いた。自分は公務に追われていて、息子に構っている時間などなかった。だがせめて息子の欲しいものくらいは与えてやろうと、幼かった自分にそう尋ねてきたのだろう。
 そして幼い自分は、自分を産んだ時に亡くなってしまった母に会いたいと、父に頼んだのだ。
 勿論既に亡くなっている母になど会えるはずが無い。しかしその頃の自分は母の死が理解できないだろうと父や従者達に気遣われていて、母は死んだのではなく、遠いところにいて自分には会えないと言い聞かされていたのだ。そんな自分は、知らず知らずのうちに父に無理難題を振ってしまっていた。
 父は酷く困ったことだろう、だが父は母に会えると信じてやまなかった自分に、あるものを用意したのだ。
「(あの手紙、どこにしまったっけな)」
 あちらの世界に戻らない限り確かめようは無いが、「手紙」をどこにしまったか思い出そうと、記憶の底を漁った。
「ロイ、どうしたの?」
 そんな声と共に肩を軽く叩かれて、驚いたロイが振り返るとそこには、自分の同居人兼想い人である、マルスの姿があった。
「マルス……」
 マルスに声をかけられやっと自分は長い時間ずっと一人でツリーを見上げていたことに気付いて、マルスに変に思われていなかったか、急に不安になってくる。
「その……昔のことを思い出していたんです」
「昔のこと? 僕達の世界には、クリスマスなんてなかったよね?」
「確かにそうですけど、僕が四歳の時、今日みたいな冬の朝に父に聞かれたんですよ。何か欲しいものはないかって」
「それは……何だかクリスマスプレゼントみたいだね。だからロイはその時のことを思い出していたんだ。……君の父上には何を欲しがったんだい?」
 マルスが王族らしく上品に笑って、ロイに尋ねてくる。
 マルスのこんな笑顔が、ロイは好きだ。形の良い唇の両端を、少しだけ上げて、彼の整った顔が更に綺麗に見えるような、その笑顔が。
「……母に会いたいと、頼んだんです」
 そんな大好きな笑顔をすぐ近くで見れたせいで、無意識の内に顔が赤くならないよう必死に自制しながら、マルスの問いに答える。
「あれ? でも君の母上は君を生んだ時に」
「ええ、僕の母は、僕を産んだ時に亡くなりました。でもその頃の僕はまだ幼かったので、母の死を理解出来ずに、父に無茶振りをしてしまったんです」
「それで、君の父上はどうしたんだい?」
「父は城の侍女に頼んで、僕宛の手紙を書かせました。それを母からの手紙と嘘をついて、僕に渡したんです」
「そんなことが……」
 もう十一年前の出来事なのに、今でもしっかりと思い出すことが出来た。
 それから数日後の朝、目を覚ました自分の元に侍女が自分宛のものだと渡してきた、一通の手紙。
 宛名に書かれていたのは、城からずっと離れた場所で暮らしているという母の名前。
「それはもう、貰ったときは凄く嬉しかったですよ。母様からの手紙だって。でもその数日後に侍女が話しているのを聞いてしまって、あの手紙が母の書いたものではなく、城の侍女が書いた物だって気付いてしまったんです。……その時は本当にショックでしたね。もう大人なんか信じないって思ったほどです」
 マルスがしゃがんで、ツリーの下に置きっぱなしだった箱を開ける。中にはまだまだ沢山のツリーの飾りが入っていて、マルスはその中から適当に三つツリーの飾りを取り出す。小さなサンタと、小さなリースと、プレゼントの箱の飾りだ。
「それは災難だったね。……でも、良い父上じゃないか」
「そうですか? まぁ確かに、母の死を理解できなかった僕を父なりに気遣ってくれたのはわかりますけど、子どもを騙すなんてどうかと思いますけどね」
 わざとらしく不機嫌そうに口を尖らせそう言えば、マルスがおかしそうに笑ってくれたので、ロイも一緒に笑う。
 幼い頃の自分にとっては思い出したくも無いほど嫌な思い出ではあったのだが、今こうして笑って話せるだけ、自分も一歩一歩成長しているのかもしれない。
「そんなことない。君の父上は優しい人だよ。……そうか、ロイにはそんな素敵な思い出があるんだ」
 ツリーにその三つを飾り、マルスが足元の小箱からさらに二つ、ツリーの飾りを取り出した。金色の小さなベルと、小さな赤鼻のトナカイだ。マルスは赤鼻のトナカイをツリーに飾り、金色のベルを自分に差し出してくる。その際にベルがちりんと可愛い音を立てた。
「素敵な思い出? これがですか?」
 差し出された金色のベルを受け取ってそう聞けば、マルスは穏やかな笑みを浮かべて、
「そうだよ。凄く素敵な思い出じゃないか」
「素敵な、思い出ですか。でも、あの時は……」
 なんだか金色のベルをツリーに飾る気にはなれず、手の上のベルをぎゅっと握り締める。
「あの時?」
「いえ、なんでもないです。……お腹が空きましたね。食堂に行きましょうか」
 くるりと踵を返し、ロイは出口へ向かう。足音からマルスも自分の後を追っているのがわかった。
 談話室の扉に近付いてやっと、マルスに渡されたベルを持ったままなことに気がつく。しかし今更これを飾るためだけにツリーの元へ戻るのもどこか億劫で、今度談話室に来るときに飾ればいいと、ロイは金色のベルを、ポケットへ入れた。






「ん」
 イブの朝、僕の向かいで食事をしているロイに、ダークがずいと厚めの封筒を差し出す。
「これは、僕に?」
「ああ」
「あ、ありがとう……」
 ロイがその封筒を受け取ると、ダークがその近くにどかりと座り込む。ロイは未だにダークにはあまり慣れていないので、少しロイが嫌そうな顔をしていたのを僕は見逃さなかった。
 後からリンクが二人分の朝食がのったトレーを持ってやってきて、ダークの向かいに座り、僕とロイに目で謝って、ダークの無礼を詫びてくれた。
「誰からの手紙だい?」
「ええと……あぁ、家からですね。開けてみます」
 確かに手紙を閉じる封ろうには、ロイの家の紋章があった。その封ろうを開けて、ロイが中身を確かめる。中の便箋を取り出す際に、封筒から何かがぱさりと、僕達のテーブルの上に落ちた。僕もロイも、近くに居た四人全員がその落ちたものに目をやる。
「これは、手紙?」
 真新しい封筒から落ちたのは、古い封筒。
 真新しい封筒もこの封筒も、全く同じものを使っているのだが、こちらは結構古いもので、所々に折り目やしわが入っている。その上紙が全体的に茶色くなっていて、長い年月が経っていることが伺える。あの封筒に入れる際に貼り替えられたらしい、真新しい封ろうが、この古い封筒では逆に不自然に見えてくるほどだ。
「この、手紙は」
 震える手で、ロイがその封筒を持ち上げる。
 ゆっくり、ゆっくりと緩慢な動作でその手紙の宛名を確認した後、何故かロイの口から小さな笑い声が漏れ出した。
「ロイ。どうかした?」
「はは……なんでこんな日に限って、今更こんなものが」
「ロイ?」
「……すみません、マルス。先に失礼します」
 無理矢理作り笑いを浮かべてその古い手紙を、新しい封筒と一緒に懐にしまい、僕に一礼をし、そのままロイは早々と食堂を出て行ってしまった。
 その後に残されたのは、半分以上も朝食の残っているトレーのみ。
「あ、待ってくれ! ……何だったんだろう、あの手紙は」
「……ニニアン」
 ぽつりと、あの間ずっと黙りこくっていたダークの口から、言葉が漏れる。
「え? ニニアン、って」
「宛名にあった名前だ」
「マルスは、そのニニアンって人のこと、聞き覚えある?」
「聞き覚えがあるもなにも……ニニアンという女性は、確かロイの母上の名前だ」
 以前、ロイから聞いたことがあった。平民の出ではあったが、フェレ家の正妻として娶られたという、一人の女性の名前。
 そしてロイの話によれば彼女は確か、跡継ぎのロイを産んだ後に……
「あれ、でもマルス……」
「うん、そうだよ。ロイの母上は、彼を産んだ時に亡くなっている。……でも、どうして」
 亡くなる前に、彼女は生まれてくる息子宛に手紙を残していたのだろうか。その母からの手紙を誰かが見つけ、こうしてロイ宛に送ってきた。そんなところなのだろうか?
 それなら何故、ロイはあんなにも動揺していたのだろう。
「母からの、手紙……あっ」
 ある思い出話が、ふと記憶の底からよみがえる。たった、たった数日前の出来事だ。あの手紙が書かれてから、今こうして彼の手元に届くまでの年月に比べれば、とても短い月日。
 大きなクリスマスツリーの前で、ロイが僕に話してくれた、あの思い出話。
 既に亡くなってしまった母に会いたいと願った、幼い彼。
 そんなロイの為に、彼の父が用意してくれた、一通の手紙。
「まさか、あの手紙は……」
 間違いない。あれがきっと、その手紙なんだろう。





「『あの手紙は、部屋の掃除をしていた侍女が見つけたものだ。懐かしいと思ったので一緒に同封させてもらった。もう十一年前になるが、お前も覚えているだろう』か……」
 自室のベランダに立ち、柵にだらりともたれかかって体重を預けながら、僕は父上からの手紙を、声に出して読み上げていた。
 フェレ家の紋章が入った便箋には、故郷の現状と、異世界にいる息子を気遣う父と従者たちの想いが父上らしい綺麗な文字で綴られている。僕はそれを一通り声に出して読み上げた後、懐にしまったままだった、あの古い手紙を取り出す。
「だからって、なんでこんな日に」
 そのまま手紙を高く掲げ、それをじっと眺める。急いで懐にしまったせいで、さっきよりもさらに折り目が付いてしまっていた。
 ――忘れもしない。四歳の冬、母に会いたいと願った僕に、父が用意した手紙。
 父が城の侍女に書かせ、数日後の朝になったら直接僕に渡すように言った手紙。
 僕達の世界にクリスマスはなかったが、マルスはこれをクリスマスプレゼントのようだと言っていた。本当にそのようだと、自分でも思っている。
 だからこそ、だろう。よりによってイブの日にこれが送られてくるとは、思ってもみなかった。
 手紙の封ろうだけが新しいものに取り替えられていたけれど、まだこれが母からの手紙だと信じていた頃に何度も読んでいたせいで、すっかり古びてしまっているせいだ。
 あれから十一年経った今でも手紙の内容は思い出せる。
 手紙の封を開く気になれないのは、今でもしっかり内容を覚えているからだろうか。
 いや、きっとそれだけじゃないはずだ。何故なら、この手紙には……
「……ここに、居たんだね」
 窓の向こう、自室の方から声がする。
 だらしなく柵によりかかったままだった体を起こし、僕が振り返ると、窓を隔てた向こうがわにマルスが立っていた。
「それは、あの時の手紙なんだろう? ……よりによって何故、こんな日にそれが」
「侍女が部屋を掃除しているときに見つけ、父が懐かしんで僕に送ってきたそうです。今日届いたのは多分、ただの偶然ですよ」
 そう、ただの偶然なんだ。あまりによすぎるだけの。
 心の中でそう唱えて、僕はそっと目を閉じる。――思えばあの時も、ただの偶然だった。
「ロイ、一体何を……」
 気がついたとき、手紙を持つ僕の手だけが、ベランダの柵を越えていた。
 外は強い風が吹いている。もし僕がこのまま手を離してしまえば、手紙はこの強い風に煽られて、そのままどこかへ飛んでいってしまうだろう。
 ここではなく、僕が元居た世界でもない、どこかへと。
「それを、捨ててしまうのかい?」
 マルスの問いかけに、こくりと頷く。
「……捨てては駄目だ。だって、それは君にとって大切な」
「僕にとって大切では、ないんです」
「え?」
「……これが母が書いたものではないと知ったのは、手紙を受け取った数週間後のことでした。誰かに明かされたのではなく、侍女がこの手紙を自分が書いたと言っているのを、偶然聞いてしまったんです」
 そう、あれは本当にただの偶然だった。こんな日にこの手紙が僕の手元にあるように、あの話を聞いてしまったのも、ただの偶然だったのだ。
 城の長い回廊。僅かに開いていた扉。その向こうで立ち話をする侍女たちの声。
 彼女達の話題は侯爵の一人息子である自分と、自分のもとに届いた一通の手紙。
 そして、息子を産んでそのまま亡くなってしまった、僕の母。
「考えてもみて下さい。その頃の僕はまだ四歳。母は訳あって城から遠い場所に住んでいて、自分がもっといい子にしていればいつか母が会いに来てくれる。ずっとそう信じ、いい子であろうと努力を続けていました。なのに偶然、本当にただの偶然で母は既に死んでいて二度と会えない。そして父が母からのものと偽って手紙を書き僕に渡した。……そう聞いたら、どんな反応をすると思いますか?」
 本当はこんな、マルスも父も傷つけてしまうような酷いことなど言いたくなどないのに、口が勝手に動いてしまう。
 あの頃のどす黒い感情が、父や従者達への失望が、十一年経った今もそのまま心の奥底に残っていたのだろうか。
 そして自分は十一年経った今、その感情を外に吐き出しているのだろうか。
「でも」
「いいんですよ。今更こんな手紙持っていたってしょうがないんです。母はもうこの世にいない。そしてこの手紙を書いたのは、母ではない。それで十分です」
「……違う、違うよロイ。君の父上はきっと君を騙したくて騙していたんじゃない。この手紙を通して君にわかってほしかったことがあるはずなんだ!」
「別に会ったこともない僕の父上のことなんて、庇ってくれなくてもいいんですよ。それにこれはもう、僕には必要のないもの。……これで、いいんです」
 そのまま、ゆっくりと手紙を持つ手を離した。手紙は強い北風に煽られ一瞬ふわりと宙を舞ったのち、そのままどこかへ飛んでいってしまった。
 手紙が見えなくなるまで目で追い続けた後、マルスのほうを向く。
 マルスは肩を震わせ、怒っているようだ。そのままつかつかと早足で僕の方へ歩み寄り、
「馬鹿!」
 そう、僕の頬を強く引っ叩く。
 引っ叩かれた後、僕も何も言わずにマルスの目を見続けていると、居心地が悪くなったのだろうか。くるりと踵を返し、無言で部屋を去ってしまった。
 誰も居なくなったベランダで、僕は強い痛みと僅かな熱を持つ頬をさすりながら、独り言を漏らす。
「そんなこと……言われなくたって」
 口の中を切ってしまったのだろう。僅かに鉄の味がした。





 中庭に出る扉を開けるとすぐに、向こう側でしゃがむマルスの姿が見えた。
 そちらの方へと足を進めるが、マルスは僕が近づいていることにも気付かない。あるいは、気付いていないふりをしているだけなのかもしれない。マルスは黙々と中庭の茂みをかき分け、なにかを探していた。
 捜し物の正体は言うまでもない。僕がついさっき、ベランダから捨ててしまった手紙だ。別に見つからなくたって僕は構わないのに、マルスは僕のために一人で必死に茂みをかき分け、手紙を探している。
 こっちに背を向けてるのでその表情は伺えなかったけれど、一瞬だけ茂みをかき分けるマルスの手が見えた。人の上に立つということを自覚しているだけあってか、肌の手入れや傷跡に気を使っていたのだろう、戦線に立ち剣を振るっていたわりにはそれなりに綺麗だった手が、すっかり汚れてしまっていた。
 その原因は僕にあるんだと思うと、胸がちくりと痛んむ。
「マルス、もう戻りましょう」
「……戻らないよ」
「僕が悪かったんです。別に気にしてなんかいませんから、もういいんです。だから、マルス……!」
 茂みをかき分けるマルスの手が止まる。その手には泥がついていて、木の枝で切ってしまったらしく、一部の指に血が滲んでいた。
「僕が、何も知らない僕がこんなことを言うのも……おこがましいかもしれないけど」
「え?」
「さっきも言ったとおり、この手紙を通して君の父上は、君に気付いて欲しかったことがあると思うんだ」
 再び手を動かしながら、マルスは続けて、
「確かにロイの言うとおり、小さな子供を騙すのはよくないことだ。そのせいで幼い君がどれだけ傷ついたのかも、容易に想像できる。……でもその先にある、幼い君を気遣ってくれた君の父上や従者達の気持ちに、気付いてあげなくちゃ」
「僕を気遣う、人達」
「確かに君の母上は亡くなられていて、もう会えない。でも君を気遣う人達がこんなに沢山いたんだ。十一年経った今だって、きっとその気持ちは変わっていない。……やはり僕が言えたことではないのかもしれないが、君の父上はそういうことをいつか、君に気付いて欲しかったんだと僕は思っている。……それに」
 僕が中庭に出て声をかけてから初めて、マルスがこっちを向いてくれる。
「それに君には、そんな素晴らしい人達に想われている。それは……きっと素敵なことだ」
 そうだろう、とマルスが笑いかけてきた。
 その頬には泥が少しだけついていて、それも気にせず僕に笑いかけてくるマルスは、いつも身だしなみに気を使っている人とは思えなかった。
 綺麗な顔を汚してまで、僕のためにこんなにも必死になってくれている。そう思うと、いけないことだとわかっているのに、少し嬉しくも感じる。
 肝心の僕はというと、何も言えずに黙りこくったままだ。そのうちマルスの顔も見ていられないほど居たたまれなくなってしまい、俯いて視線をそらした。
「あ、いたいた。……おーい!」
 僕らのそんな静寂を破るように、遠くから声がする。リンクだ。
 俯いたままだった顔をあげて振り返ると、手に何かを持ったリンクが、こっちに向かって来ている。
「リンク? それは……」
 その手にあるのは、色褪せ折り目のついた古い封筒。――僕がベランダから落としたものだ。唖然とする僕とマルスに、リンクは、
「これ、今朝届いた手紙だよね? ダークが見つけたって言って、渡してきたんだよ。よくわかんないけどさ、多分ロイにとって大事なものなんだろ?」
 すっと、持っていた手紙を差し出す。僕が手紙を受け取ろうと、手を伸ばそうとしたその前に、
「リンク……ありがとう!」
 僕が手紙を受け取るよりも早く、マルスが横からリンクに抱きついてくる。
 リンクが驚いて目を見開いていたのが見えたが、僕はリンク以上に驚いた。普段のマルスは、人に軽々しく抱きついたりするような人じゃない。よほど嬉しかったんだろう。
 だからこそ、リンクも僕もとても驚いている。……リンクは純粋に驚きの感情だけだろうけど、僕は驚き半分、嫉妬半分といったところだろうか。正直、その相手がどうして僕ではないのか。という気持ちが心の中にあった。
 マルスに抱きつかれたままのリンクが、僕を見ている。目が合うと、リンクは声を出さずに唇だけを動かし、僕にごめん、と言ってくる。僕が嫉妬していることに気付いてしまったのだろう。
「あ……そっ、そんなんじゃないからね! リンク!」
 顔の前で手をぶんぶんと振って、慌ててリンクに否定をする。リンクは自分に抱きついていたマルスの体を離させて、
「えーっと……何があったのかよくわかんないけどさ」
「ん?」
「マルスはぼくじゃなくてロイの方にも、ちゃんと構ってあげてね?」
「それは……一体何の話だい?」
「まぁ、それはこっちの話。ね、ロイ」
 いたずらっぽく笑ったリンクが、僕を見る。どうやら嫉妬している僕を茶化して遊んでいるらしい。怒った僕はだん、と地団太を踏んで、
「ぼ、僕に振ってこないでよ!」
「ロイは、何の話かわかるの?」
「そ……そんなことっ、僕にわかるわけないじゃないじゃないですか! もう!」
 マルスに抱きつかれたリンクに嫉妬してしまい、それに感づいたリンクが僕に気を使ってくれた……といっても、僕を茶化して面白がっているところもあるけれど。
 とにかく、そんなことマルスに言えるはずがないので、むきになってぷいとそっぽを向いてしまう。
 僕がそっぽを向いている間に、もう用が済んだらしいリンクは中庭から去ろうとしているようだった。マルスがもう一度、リンクに手紙を届けてくれたことへのお礼の言葉を言っているのが聞こえる。
 流石に何度もお礼を言われて、リンクもむずがゆく思っているらしく、マルスのお礼を適当に受け流し、そのまま去ってしまった。
 去っていくリンクを見送った後、マルスが安堵のため息をついて、
「見つかって、本当によかったよ。……あ、でもこんな手じゃ汚れてしまうね。ごめん」
「……別にいいですよ。今更ちょっとくらい汚れたって気になりません」
「でもこれは君にとって思い出の品だ。君の父上や従者達との、大切な」
 ……この手紙を書いたのは、僕の母ではない。父が城の侍女に書かせ、母のものだと偽って幼い僕に渡した手紙だ。こういう言い方をしてしまえば、父も従者も、ただ幼い子供を騙しただけの人となる。
 でもマルスの言うとおり、この手紙の中にこめられている何十という人の想いに気付けたら、幼い頃のあの気持ちも、少しは和らぐような気がした。……それに気付くまでに、十一年という年月がかかってしまったけれど。
 ずっとそっぽを向いていたままだった体を、マルスの方に戻すと、傷と泥だらけの手で、僕に手紙を差し出すマルスがいた。
 僕は、その手紙を受け取って、
「……これからは、大事にします」
 新しく増えた、好きな人との思い出と一緒に。





「手を洗って、座っててくださいね。すぐに手当をしますから、他に怪我してるところはないですか? あるなら言って下さい。まとめて手当しちゃいますから」
「そんなに気にしなくても大丈夫だよ。放っておけばすぐに……」
「駄目です! ちゃんと手当しないと」
 顔をずいと近づけ、きつくそう言うと、マルスは慌てて顔の前でわかったからと、手をひらひらと振り、洗面台の方へと向かう。
 僕もその間に戸棚の中から救急箱を引っ張り出し、救急箱から絆創膏と消毒液を取り出して、傷の手当ての用意をする。
 あれから、あの手紙を受け取った僕は、マルスの傷の手当てをするために部屋に戻ってきた。手紙を探すために中庭の茂みを必死にかき分けていたマルスは、いくつか指を切ってしまっていたのだ。
 本人は大したことはないと言い張っていたけれど、見ればそれなりに深く切っていたようだし、何より傷を作ってしまった原因は僕にあるのだから、無理矢理マルスにそう言い聞かせて、一緒に部屋に戻ったのだ。
 ポケットの中に手を入れ、朝の時とは違い、出来るだけ折れ曲がったりしないようそっと、あの手紙を取り出す。
「ん?」
 ポケットを漁っているときに、手紙でもハンカチでもない何かに、指先が触れた。何だろうと思ってその何かをつまんで取り出すと、ポケットの奥から、小さな金色のベルが出てきた。
 どうしてこんなものがポケットに入っていたのだろう。そう考えていると、数日前の出来事が頭の中をよぎる。
 そうだ、数日前の朝、マルスとあの手紙の思い出を話している時に受け取ったものだ。マルスは僕の話を聞きながら飾りを数個ほどツリーにつけていて、その時に僕にも飾れということだろう、とにかくこのベルを渡されたのだ。
 今でこそ違うが、僕にとってあの手紙の思い出はあまりいいものではなかった。だから話をしながらこのベルをツリーを飾る気にはなれなくて、あとで飾ろうと思いポケットの中にしまって、そのままになっていたのだ。一度ベルを入れたまま洗濯にかけているせいか、紐の部分が少し弱くなっている。
 そのベルをテーブルの上に置いて、手紙を取り出すべくもう一度ポケットに手を突っ込む。
 マルスが泥で汚れた手で触った為、封筒にも少しだけ泥が付いていた。
 でも、それほど気にならないどころか、これがこの手紙に新しい思い出が増えたしるしのような気がするので、正直まんざらでもなかった。
「ロイ、手を洗ってきたよ」
「あ。じゃあそこに座って下さい。今手当をしますから」
 マルスが目の前の椅子に座る。僕も持っていた手紙をテーブルの上に置き、かわりに消毒液と脱脂綿を手に取り、隣の椅子に座る。その際にマルスが、テーブルの上に置かれた手紙を見て、穏やかな微笑を浮かべたのを、僕は見逃さなかった。
「本当はこのくらい、自分で出来るんだけどね」
 差し出されたマルスの手を取る。血は止まっているけれど、それなりに深く切っていたのがわかる。
「僕のせいですから……これくらいはさせてください」
「わかったよ。……ありがとう」
 消毒液を数滴脱脂綿に垂らし、傷口にそっとあてがう。やはり痛いのか、視線をマルスの手から上げれば、痛みに顔をしかめるマルスが映る。
「すみません」
 いくつかの傷口に脱脂綿をあてがっていると、思わず謝罪の言葉が漏れる。
「僕の意志で、あの手紙を探そうと思ったんだ。君は気にしなくていい」
「でも、あれは……」
 僕があの手紙を、捨ててしまったから。そう言おうとしたのに、にっこりと微笑んだマルスが、僕の唇に指先をあてる。マルスの指先が思った以上に柔らかくて、少しどきりとしてしまう。
 そんなこと言わなくていい、と言いたいのだろう。僕もそのまま黙りこくって、傷口に脱脂綿をあて続けた。
 一通り傷口を消毒して、今度は絆創膏を手に取る。ひとつひとつ丁寧に絆創膏を貼っていくと、手を動かすことが出来ないので、あたりをきょろきょろとしていた。
「あれは、どうしたんだい?」
 あれとはなんだろうと、マルスの視線の先にあるものを見る。そこには、さっきテーブルの上に置いたばかりの、小さな金色のベルがあった。
「あれですか? 数日前、マルスに渡されたものです」
「ああ、あの時の……」
 マルスの中指に出来た傷に絆創膏を巻きながら、僕はそうですと相槌を打って、
「ツリーに飾ろうって思ったまま、忘れていたみたいで」
「そうか……じゃあ、後で一緒に飾りに行こうか」
 最後の一枚の絆創膏を、僕に貼ってもらいながら、マルスがそう言う。
 一通りマルスの傷口に絆創膏を貼り追えた僕は、テーブルの上のベルを取って、マルスと僕の間に持ってこさせた。
 その際にベルがちりん、と可愛い音を立てる。
「別にそんなのいいですよ。これ、マルスにあげます」
「これを、かい?」
「勿論、いらないなら後でちゃんと飾りに行きます。クリスマスの思い出の品ということにしておいて、とって置いて下さい」
「それはいいけど……大丈夫かな?」
「大丈夫ですよ。飾りがひとつふたつなくなったって、誰も気にしませんし」
 だから受け取って下さい。僕がそう言うと、絆創膏が貼られた手で、マルスがベルを受け取ってくれる。
 その際に、少しだけマルスの手が触れた。ついさっき傷の手当てをして、散々マルスの手を触っていたはずなのに、ちょっとだけときめいてしまった自分が、なんだか情けない。
「なら、そうさせてもらうよ。……これは君からのクリスマスプレゼント、ということなのかな」
 ふふ、とマルスがおかしそうに笑いながらそういうものだから、つられて僕も笑いながら、
「そうですね。そういうことにしておいてください」
「ありがとう。お返しも、考えておくからね」
 マルスが、手に持ったベルを軽く振る。
 ちりんと可愛い音が、部屋の中に響き渡った。





 ゆっくりと、半身を起こす。部屋は暖房が効いているとはいえ、やっぱり冬の朝は辛い。
 僕はそれほど寝起きが悪いほうではないと思っているけれど、冬の朝が辛いことに変わりはないし、同じ部屋で寝ているマルスは非常に寝起きがいいこともあるので、起き辛い、と感じるとなんだか焦ってしまう。寝起きの良い人に合わせようとして、自分もちゃんと朝起きれるようになった、と考えればもうけものかもしれないが。
 腕を伸ばし、大きく伸びをする。隣のベッドを見るともぬけの殻で、そんなに寝過ごしてしまったのかと驚いたけど、時計の針はいつも僕が起きている時間を刺していて、ただマルスが早起きしただけだとわかった。
 いつも起きている時間だとしても、マルスがこんな早くに起きている以上、僕もゆっくりなんかしていられない。着替えようとベッドから降りたその時、
「ん?」
 ぱさり、と何かがベッドから落ちる。
 落ちた何かを拾い上げると、それはどうやら手紙らしい。落ちてた場所から考えるに、この手紙が置かれていた場所は恐らく枕元だろう。
 宛名には自分の名前が書かれていて、この封筒にもどこか見覚えがある。
 送り主は誰だろうか、そう思い手紙をひっくり返して、封がされている方の面を見る。
「……これは」
 丁寧で癖のない、見慣れた字。その字を見て僕が思い浮かべた人とは、違う名前が書かれてはいたが、これは間違いなくあの人の字だ。
 それを見て、思わず笑い声が漏れてしまう。
「ほんとに、しょうもない人だ」



「今日のロイは、機嫌がよさそうだね」
「……マルスだってそうじゃないですか」
 にやけた顔をあまり見られたくないので、そっぽを向きぶっきらぼうにマルスの言葉に答える。
 そっぽを向いているので顔は見えないが、マルスの嬉しそうな笑い声が聞こえた。
 あんなことを僕に言ってきたが、今日のマルスは僕以上に機嫌が良い。そのせいかやけにニコニコしている。……その原因は僕にあって、かつそれを知っているのも僕だけ、というのもあってか、それにはいささか複雑ではあるが。
「誰からのものだったんだい?」
「筆跡でバレバレです」
「でも、君は嬉しそうな顔をしている」
 僕がそっぽを向いている方向にマルスがやってきた。こんな顔を見られたくはないので、今度は反対方向を向く。
「僕に怒られる可能性は、考えなかったんですか」
「でも、君はこうして喜んでくれている」
 ――あんなものをマルスから貰って、喜ばないわけないじゃないですか。そう言おうとして、なんとか踏みとどまった。好きな人から手紙を貰って嬉しくない男など居るわけがない。が、それをマルスに気付かれてはいけないのだ。
 マルスはそんな僕の気持ちも知らずに、よかった。と胸を撫で下ろして、

「君が喜んでくれて、本当によかったよ」



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