目を閉じたら、死ぬと感じた。
 盾で、ダークは自分に向けて振りかざされたその剣を防ぐ。がきん、と大きな音を立ててなんとか防ぎはしたものの、その衝撃で僅かに体がよろめいた。
 そのよろめいた隙を狙われないように、すぐに体制を立て直し、後ろに数歩下がって、荒れた息を整える。
 目を閉じたら死ぬ。目を閉じるだけではない。気を抜いても、体を動かすことを諦めても、きっと死ぬだろう。
 ただあくまでもこれは剣の手合わせなのであって、実際に命の危険にさらされることはまずないと言っていいだろう。しかし手合わせだからと気を抜くような真似はできない。
 目の前の相手をきつく睨む。目の前に居るリンクは、持っている剣をくるくると回してダークを挑発している。頭に血が上っては負けるとわかっているので、その挑発には乗らずに、もう一度息を吸って呼吸を整えた。
 自分が挑発にのらなかったと気付いたのか、リンクが一気に自分との距離を詰めてくる。剣の柄を握り続ける左手にぎゅっと力を込め、リンクが間合いに入るのを待った。
 リンクが剣の間合いに入ったと思って、剣を横に薙いだ。が、剣を振るのが少し早かったのだろう。リンクはわずかに動いてそれを何事もなかったかのように避けた。
「……っ!」
 右臑に鈍い痛みと衝撃が走る。リンクがダークの体制を崩そうと足払いをしたのだろう。
 足払いをもろに食らった自分の体は当然よろめいて、情けなく地面に尻餅をついた。剣も盾もその際に落としてしまった。
 視界の先が銀色に光る。スローで自分に剣を向けるリンクの姿が見える。これが練習でなかったのなら、自分は殺されていただろう。ただこれは練習なので、その剣が自分の喉元から寸でのところで止まるとわかっていた。わかっていたから、無駄な抵抗をする気もなかった。
 剣先が近付く。大丈夫だ。その剣がもう一度自分を貫くようなことは、きっとない。
「(もう一度……?)」
 心の中でその言葉を呟くと同時に頭の中で、何かがばちんとはじける音がした。同時に視界に白い靄がかかる。霧がかかったような白い靄のせいで目の前のものを、自分に向けられた剣が上手く見えなかったのだが、瞬きをして靄を取り払うことをする暇はなく、ダークはじっと目の前を見つめることしか出来なかった。
 さっき聞こえた音が一体何の音だったのか、本当にした音なのか、あるいはただの空耳だったのかすらもわからないのに、その音が自分の脳をじわじわ溶かすように、いやに頭と耳に焼け付いて残響している。
 自分は視界にかかった白い靄を取り払う為に、瞬きをしたかったのだと思う。
 自分は頭と耳に焼け付いたあの音が苦しくて、頭を抱えたかったのだと思う。
 しかしついさっきまで自在に動かせていたはずの体を、どう動かせばいいのかわからなかった。今まで自分が体をどう動かして、剣を振っていたのかがわからない。体を動かしたくても指一本動かすことすら出来なくて、こうしている間もずっと自分は尻餅をついた情けない姿のままだった。
 視界にかかる靄がいっそう酷くなった。まともに前が見えなくなるほど、靄はもはや濃い霧のようになって自分の視界を遮っている。
 必死に目を凝らして、靄の先にあるものを見ようとする。霧のように濃い靄のせいで、本当に何も見えない。
 目を閉じたら、死ぬと感じた。
 確かに自分はついさっきまでそう思っていたはずだ。だから今必死に靄の先にあるものを見ようとしているのに、心のどこかでもう無理だとわかっているのだろうか、頭が無意識のうちに、目の前を見ることを拒んでいるような気がした。
 もう一度、頭の中でばちんと何かがはじける音がした。その音と同時に、靄の先に鈍く光る金色と銀色が見える。
「(……!?)」
 ほんの一瞬の間だけ、視界の靄が全て消えてしまった。
 いきなり不明瞭な世界が明瞭になったことに驚くよりも早く、靄の先にあったものに目が行った。
 靄の先にあったものは、自分に剣を向けるリンクの姿。その姿を見て、さらにもう一度ばちんと音が聞こえた。
 リンクの輪郭が二重になる。すぐに輪郭が二重になったのは、ダークの視界が歪んだからではなく、自分の記憶と今のリンクの姿が重なったからだと理解できた。
 ――ふと、似ていると思った。
 この状況が一体何に似ていたのか思い出すよりも早く、そんな言葉が、鈍った頭の中で信じられないほど早く過ぎっていった。
 そしてそんな言葉が過ぎって、自分は体を動かす方法を思い出すよりも先に、この状況が一体何に似ていたのか、必死に思い出そうと鈍った頭を叱咤させて、脳内に検索をかけている。
 人間に比べれば非常に浅いだろう記憶の底を、必死に漁る。目的の記憶が出てくるまで、そう時間はかからなかった。
「(ああ……本当に似ている)」
 その記憶と今の状況を比べた。確かに、よく似ている思った。

「(おれが殺された時に、似ているんだ)」





 「霧」というものを初めて見たのは、あいつと旅を始めて間もない頃だと思う。
「あー……まいったなぁ」
 横でリンクがぼりぼりと頭をかいて、何時間かぶりに言葉を発した。
 何時間かぶりに言葉を発したといっても、リンク以上に自分は長時間何も喋っていないはずだ。リンクに連れ出される日まで数えるほどしか言葉を発したことの無かった自分には、こういう時にどんな言葉を発すればいいのかわからない。
 自分には物事をそれなりに理解できるくらいの知能と、人間と会話をしても特に不自由は無いくらいの言語能力は予め与えられていたが、それらを十分に活用したことなど、生まれてから連れ出されるあの日まで、ただの一度も無かった。
 自分にとっては知能も言語能力も正直あってもなくても至極どうでもいいものなので、それらが無ければ生きてはいけないと言わんばかりに喋る人間達には、うるさい、という気持ちと共に酷く驚かされたものだ。
 そもそも、今話すことなど何も無いはずだ。自分達はずっと山沿いの道を歩いていて、とくに発見したものも事件も無い。あるとすればリンクがついさっき何故かはわからないが足を止めただけだ。話すことなど何も無い。だから自分は何も話さない。
 それだけのことだ。そう思って、自分の寡黙さを心の中で正当化した。
「見て、濃い霧がかかってる」
 リンクがある方向を指差した。その方向に視線をやると確かに、その辺り一体に白い靄がかかり、その靄のせいで辺りがよく見えなくなっていた。
「今日は少し寒いし、ここは高い所だから、霧くらい出るだろって思ってたんだけどね」
「……霧?」
 一言だけではあるが、数時間ぶりに言葉を発した。
 暫く声を出していなかったのと、喉が少し渇いていたので声が僅かに掠れていたが、数ヶ月もなにも喋らなかった時期も自分にはあったので、それに比べれば数時間何も喋らないことなどなんでもないことだ。寧ろこうして旅を始めてから、自分は大分喋るようになったと自覚している。
「そう、霧。ここみたいな高くて気温の低い所だと、霧が良く出るんだよ。雲みたいだろ?」
「前が見えない」
「そうだね。でも、日が落ちるまでもう少し時間があるから、もうちょっと進もうか」
 リンクが自分にそう語りかけている間もその、霧というものから視線を外すことが出来なかった。
 あんまりにも自分がじっと霧を見つめているものだから、リンクが眉間にしわを寄せて視線の間に割って入る。
「何かあった?」
「……赤」
「赤?」
「赤い霧を、見たことがあるかもしれない」
 リンクが眉の間のしわを増やして、更に首を傾げて何か考え込んでいた。
「赤い霧なんて、そんなのないよ? それにダークも多分……霧を見るのは初めてのはずだよね」
「でも、見たことがある。その時のことはよく思い出せないけど、確かに見た」
「そっか、でも……そのうち思い出せるよ。行こう」
 リンクが先にエポナの手綱を引いて、霧のかかった景色に向かって歩き出した。霧がかかっている場所はまだまだ先のはずなのに、一瞬霧がリンクの肩に、髪にかかったような気がした。
「(ああ、そうだ)」
 目の前が真っ赤に染まるほど噴出した液体。その先に見えていた、鈍く光る銀と金。
 その紅霞の先に、リンクが居たのだ。
「思い出した。……お前に殺されたあの時に、赤い霧を見たんだ」
「え?」
「噴出す自分の血が霧みたいで、おれはこの霧を見て、それを思い出したんだ」
「血って……そんな」
「でも似ている。その先に確かに何かがあるはずのに、霧のせいで見えないのが」
 あの時は、霧の先にあるものなど、見たくもなかったが。





「ダーク!」
 誰かの悲鳴が聞こえた。ぼんやりと靄がかかっているせいで、思考力が低下している頭では上手く物事が考えられずに、その悲鳴が誰のものか理解しようとすらしなかった。
 だが左手が無意識のうちに、おれはおれにずっと向けられていた「銀色の塊」を強く握り締めている。そのせいだろうか、左手の平が熱を持っていて、それと鋭いようでじくじくと痺れるような、よくわからない感覚がさっきからずっとしている。左の前腕から肘にかけ、何か液体が肌を伝う感覚もする。グローブと服の袖がじんわりと湿る感覚もして、それが酷く気持ち悪い。
 多分、このじくじくと全身を支配するよくわからない感覚は、「痛み」というものなんだろう。そんな自覚はあったのに、痛覚が上手く働いてくれないのか、痛いと感じることができない。
 誰かがおれの手を、今握っている銀色の塊から引き剥がそうと手をかけたのがわかった。指を一本ずつ引き剥がそうとしているのが分かる。このまま手を離せば……手を、離せば?
 おれがこのまま素直に手を離したら、一体どうなるんだ?
 きっとおれがこの手を離してしまえば、この銀塊はおれの体を貫くだろう。あの時にこの剣は確か鳩尾から少し左あたりを貫いた。今度はきっとこの剣は、おれの喉を真っ直ぐに貫くつもりなんだろう。
 だから、この銀塊を絶対に離してはいけないのだ。離してしまえば、きっとおれにとって一番起きて欲しくないことが起こるはずだ。だから銀塊から手を離してはいけない。絶対に。
 絶対に離すものかと銀塊を一層強く握り締める。手の平がさっきよりも熱を持ち、よくわからないあの感覚が酷くなった。何かの液体が手の平から噴出して、液体は服の袖を湿らせ前腕を伝い、やがて地面に水溜りを作った。じわりと脂汗も噴き出しているのがわかった。
 もう一度誰かの悲鳴が聞こえる。普段のおれならきっと誰の悲鳴かわかっているはずだ。おれが何度も聞いたことのある声だろう。でも、やはり今のおれには誰のものかわからなかった。
「また……お前は……」
 自分が何を言っているのか、何を言いたいのかもよくわからなかった。口を開けて、息を吸って、目の前の相手――リンクに、獣のように吼えた。
「またお前は、おれを殺すのか……っ!」





「大丈夫?」
 頭の上から、声が聞こえた。長い間ぼくは椅子に座ってぼうっとしていたのだろう。医務室を追い出されてから何をしていたのか、何を考えていたのか、よく思い出せない。
 辺りに甘いチョコの匂いがただよっている。顔を上げると、甘い匂いのするカップを一つ、ぼくに差し出しているマルスが居た。
「駄目じゃないか。リンクの方が死にそうな顔をしていたら」
 ありがとうと呟いてカップを受け取ると、マルスがぼくの正面にある椅子に座った。マルスのカップの中身を見る。ココアではなく紅茶だった。
「気にしているの?」
 マルスの問いに何も答えず、カップに口を付けた。甘いココアが喉を通っていく。
 ――気にしている。今から大体一時間ほど前の、あのことだろう。
 一時間ほど前に、ぼくはダークと、マルスを立会人に頼んで剣の手合わせをしていた。本気で行こうと言って、今回は練習用の剣ではなく、普段使っている本物の剣を使ったのだ。
 結果はぼくの勝ちだった。元々ぼくが押していて、ぼくの足払いが上手く決まってダークが倒れ込み、倒れ込んだ際に剣を離してしまってから、勝負は決まった。
 でも、問題はそこからだ。
 勝負か決まっても、足払いを受けて地面に倒れ込んだまま、ダークは何も喋らず、ぴくりともしなかった。
 ぴくりともしないダークは、ただ呆然とぼくを見つめているだけだった。見つめていると言っても、その赤い目は焦点が合っていなかったから、ただ顔がぼくの方を向いていたというだけであって、その目は決してぼくの顔を見ていたというわけではなかった。そんなところだろうか。
 端から見ればぼくらは確かに、「目が合っている」という状況だったと思う。でもダークはこっちを見ているのに、ぼくが見えていない。ぼくという存在を認識できていない。そんな感じがした。
 流石にちょっと様子がおかしい。そう思って声をかけようとぼくが口を開いたその瞬間、ダークはずっと自分に向けられたままだった、抜き身の剣を掴んだ。
 いつも剣を振っていても手を怪我することのないように、剣を振るときぼく達は必ず手甲やグローブをつける。でも、刀身をそのまま掴むことを想定してつけている訳じゃない。当然鋭い刃はグローブの布ごとダークの手を切り、地面にいくつもの赤い斑点を作った。
 手合わせに立ち会っていたマルスが、悲鳴を上げてダークに駆け寄る。これ以上手を傷つけないように、ダークの手を剣から離させようとしていた。
 それに対しダークは離すものかと言わんばかりに、剣を掴む手にさらに力を込めて抵抗した。マルスが更なる悲鳴を上げて、少々手荒いながらも無理矢理剣からダークの手を引き剥がして、そのままマルスはダークの肩を抱いて、医務室に連れていった。
 その間ぼくは、何もできなかった。ずっと剣をダークに向けたままで、やっと剣から手を離したのは、ダークの姿が見えなくなってからだった。その場に残ったのは、赤く広がる血溜まりと、棒のように立ち尽くすぼくだけだった。
 ダークはマルスに手を剣から引き剥がされるその直前に、ぼくに向かって叫んだ。「またおれを殺すのか」と。その言葉が、耳に焼け付いて離れない。
 何も言わなくても、ぼくの考えていることがわかるのだろう。マルスは黙りこくっているぼくの代わりに、口を開いて、
「数ヶ月前かな、ダークが怪我をした日のこと、覚えてる?」
「ダークが怪我って……あの時の?」
 今から数ヶ月前のことだったか。剣の手入れをしていたダークが、右手の指を数本ざっくりと切ってしまったらしい。そういう時はいつもはぼくがすぐに手当てをするのだけれど、その時生憎ぼくはステージで戦っていて、ダークが指を切ったということを知らなかったのだ。
 しかも何を思ったのか(といっても大体ぼくのせいだけど)、ダークは止血も何もせずに屋敷の中を歩き回り中庭に出たという話だ。
 そんなダークをマルスが見つけて、自分の部屋に連れ込んで手当てをしてくれたのだ。
 よく覚えている。どちらかというと手当てをしてくれたことよりも、その後ダークがマルスに失礼なことを言ってしまったことの方が、よく記憶に残っているけれど。
 でも、それがいったい何の関係があるのだろう。ダークが手を怪我したということでは同じことだけど、あの時と今では怪我の度合いが違う。
 マルスはぼくのそんな疑問に気付いているのか、カップから口を離し、にっこりと笑って、
「あの時ダークが話してくれたんだ。自分が死ぬ瞬間のことを、ありありとね。途中でそれに耐えかねたロイが、ダークを遮ってやめさせたんだけど」
「そんなことが……ごめん、ダークが二人を不快にさせて」
「いや、別にいいんだ。僕も自分へのけじめとして、あの話は覚えておきたいしね」
「けじめ?」
「ああ、こっちの話。気にしないで」
 マルスがまた王族らしく上品そうに笑って、紅茶の入ったカップに口を付ける。
「それでまぁ、あまりに淡々と話すものだから、僕はてっきり、ダークは自分が一度死んだことに対する自覚は薄いのか、あるいは始めからそういう自覚が存在しないと思っていた」
「……ぼくも、おんなじこと思ってた」
「やっぱり? 元々の性格の上に、自分の意志ではなく君の意志で生き返った。彼の生への執着は、きっと僕達よりもずっと薄いはず」
「でもダークは、ぼくとの手合わせで負けそうになった時、ぼくの剣を掴んで必死に抵抗をした」
 だから、ぼくらが思っていたことはきっと、間違いだったんだ。
 生への執着が非常に薄い。自分がこのまま生きていても死んだとしてもどうでもよくて、でも自分から命を絶とうとは思わないし、そんなことぼくらが許さないから生きているだけ。――ダークはそういう性格なんだと、勝手に思っていた。
 でもそうじゃなかった。ぼくがもう一度ダークを殺すようなことなんてあり得ないのに、ダークはぼくの剣を掴んで必死に抵抗をした。生への執着が薄いはずのダークが必死に抵抗をしたのだ。生きるために。
 あの時の光景と、ダークがぼくに向けて言ってきたことを思いだす。ぎゅっと胸が苦しくなった。
 胸の苦しさに服をぎゅっと握りしめようと、手を胸元に持っていく途中、ことんという音と、マルスのため息が聞こえた。視界を上げると悲しそうに笑っているマルスと目があって、同時にぼくがいつのまにか俯いていたことに気がついた。
「間違いじゃないと思うんだ」
「でも、ダークは」
「死んでもいいと思っているのは本当だと思う。でもあの時と同じ死に方で死にたいとは、思っていないんじゃないかな。だから、あんなことをしたんじゃないかな」
「同じ、死に方」
 あの時と同じようにぼくに剣で刺されて、死ぬという方法。言われてみれば確かにそう思っていそうだし、実際ぼく自身、もう一度殺すような真似は絶対にしたくない。
 喉から苦いものがこみ上げてくるような気がして、もう一度ココアに口を付ける。少しだけ飲んで、まだ半分ほど中身の残ったカップを、テーブルの上に置いた。
 マルスは、何故かカップをその手に持ったまま、そっと目を伏せて、
「……『今でも覚えている』」
「へ?」
「『肺は焼けるように熱いのに、体はとても寒くて、全身を巡る血が妙に暖かく感じられた。刺されたところから止め処なく流れ出た血が肌に触れて、それが凄く暖かかったのもよく覚えている。酷く寒くて、酷く眠い――』」
「……ちょ、ちょっと待って! マルス!」
 マルスの言葉を遮ろうと、あわてて椅子からがたんと大きな音を辺りに響かせ立ち上がる。その際に体をテーブルにぶつけてしまったせいで、カップの中身が大きく揺れた。
 マルスに言われなくてもわかった。
 きっとそれはマルスとロイが聞いたという、ダークが死ぬ瞬間のことだ。
 ぼくはダークに死ぬ直前のことを聞いたことがないので、ぼくに刺されて、それから命が尽きるその瞬間まで、ダークが一体を感じていたのかというのは、ここで初めて聞いたことになる。
「彼も、こんな苦しみをもう一度味わうのはごめんだろうね。それに前とは違い彼を殺した人は今、彼の一番近くにいる。一番近くで、一番自分を気にかけていてくれる」
 彼を殺した人、ぼかした言い方でもすぐにわかる。だってそれはぼくのことだから。
「でもダークはあんなことをしたんだ。もう一度殺してくるって、きっと思われてる」
「それは実際に彼に聞いてみればいいよ。あくまでもそれはリンクの想像なんだ。彼がどう思っているかなんて彼にしかわからない。君達がたとえ、共鏡のような関係であってもね」
「わかった……聞いてくるよ。医務室に行けるようになったら」
「……そうだ、言い忘れたことがある。というより、これを言うために僕はここに来たのだけど……まぁ、いいや」
「言い忘れたことって?」
「ダークの手当てが終わったから、もう来ても大丈夫だって、ドクターマリオからの伝言」
「そ、そんなこと一番最初に言ってくれれば……!」
 こっちがわたわたとしている一方で、マルスはとても涼しい顔で微笑んでいた。
「変なことを考えてないか知りたかったんだ。……そうだ、ダークに言い忘れてたことがあるんだ」

「包帯を取り替えるくらいなら出来るから、また来てほしいって」



 ノックを二回して医務室の扉を開けると、すぐにベッドの淵に腰掛けていたダークと目があった。でも、なんとなく後ろめたい気持ちがあったので、目をそらしてしまった。
「大丈夫?」
「ああ。……でもしばらく、左手は使えないだろうって言われた」
「そりゃそうだよ……だって」
 だって、あんなことをするから。そう言いかけて、ダークにそうさせた原因がぼく自身にあったことを思いだし、口をつぐんでしまった。
 ダークの左手に目をやる。ぐるぐると包帯が巻かれていた。痛々しいあの光景を思い出して、胸が痛む。
 素手で掴んでいないだけ多少はましではあるものの、それでもかなり深く切ってしまったらしい。以前、右手の指を切ってしまったときとは、わけが違う。
 次に顔に目をやった。それなりの量の血を流していたせいだろう、元々血色の悪い肌がかなり悪くなっていた。
「すまない」
「どうしてダークが謝るのさ」
「少し前にマルスがここに来た。マルスにお前が凄く心配していたから、後で謝るといいって言われた。だから謝った」
「いいよそんなの。ぼくのことなんて気にしないで」
 ぽん、と服の上から、ダークから見て鳩尾から左のあたりに、手を置いてみた。
「ここだっけ? その、あの時さ……ぼくが……」
「ああ、そこだ。そこがあの時お前が刺した場所だ」
 ……喉の奥が熱くて、ごくりと唾を飲み込む。
 この手と服の下にあるものは、ぼくも一応、何度も見たことはある。
 大きく痛々しい古傷。
 言葉通り彼の命を奪った、致命傷。
 ぼくがこの手で刺した傷。
 自分のしでかしたことを見せつけられて、胸がまたぎゅっと締め付けられるように痛みだした。
 ただ、自分のしでかしたことといっても、別に間違ったことではないはずだ。あの時ダークを殺したのは、間違ったことじゃないはずだって、今でも信じている。
 こうやって目の前の彼を殺したことを、ぼくは正当化するつもりかと聞かれると、多分きっと、そのつもりなんだろう。でも、本当に間違ってなんか居ないはずだ。だってダークを殺して先に進まないと、ハイラルは救えなかったはず。
 ダークは死んだ。ぼくが殺して、そしてぼくの意志で生き返らせた。でも生き返ったことで、ぼくがダークを殺したことが帳消しになるわけじゃない。
 ダークのこの傷が、この手に残っている殺したときの記憶と感覚が、そして彼にも残っているはずの殺されたときの記憶と感覚が、その事実が消えてなくなる日は、永遠に来ないことを証明している。
 ついさっきマルスに教えてもらった、ダークが言っていたらしい、生き物が死ぬ瞬間の感覚を思い出した。ダークが殺されたときの感覚を覚えているように、ぼくだって、ダークを殺したときの感覚を覚えているんだ。
 ――今、自分の目の前にいる人を殺したときの感覚。忘れもしない。忘れられないあの感覚。
 ダークの体に突き立てた剣がまず服と皮を貫き、次に肉とたくさんの血管を貫き、そして内蔵と骨を貫いていった、あの感覚。
 そのままぼくが剣を引き抜けば、霧のように吹き出す血とともに、斜めにダークが地面に倒れ込むあの光景。
 ダークは、自分はぼくの体を模して作られたものだと言っていた。つまり、自分達は思考や性格まで似ることはなかったものの、顔も体の構造も全て同じ。
 同じ状況下で殺されたらどう感じるのかも、きっと同じ。
「痛く、なかった?」
「……痛かった。でも、そのうち痛みも感じなくなっていったから、痛みそのものはあまり覚えていない」
 気遣うということがよくわからないであろうダークは、ぼくを気遣って、嘘を言うようなこともしてくれない。けれど今は正直に言ってくれた方が、かえってありがたかった。
「ダークはさ、殺されたこと……怒ってる?」
「おれは怒らないといけないのか」
「違う、そんなじゃないんだ。ただ、普通は……」
「そうしろってお前が言うのなら、そうしてもいい。でも怒ったらお前はいい気分じゃないだろう? だから怒らないし、お前を不快にさせたくないから、おれは怒りたくない」
「……ごめん」
 ダークの顔を見ていることが出来なくて、視線を床に落として目をそらす。
 そっと、左手にひんやりとした感覚がする。少しだけ視線を上に戻せば、包帯が巻かれていない右手をぼくの手にのばして、ぼくの表情を伺うべく顔をのぞき込んでいるダークと目があった。感情がほとんど現れない赤い目が、じっとこっちを見ている。
「あの時、怖かったんだ」
「怖い……?」
「おれはいつ死んでも別にいい。でも、お前だけは殺されたくない。それと次は、痛い思いをしないで綺麗に死にたい。だからあの時凄く怖くなった。怖くなって、おれはあんなことをしたんだろう」
「綺麗な、死に方」
「変だよな。魔物に死に方を選ぶ権利なんてないのに」
「別に変じゃないよ。こうして居る限り、ダークは人間と何も変わらないんだ。そんなことを考えても、全然変じゃない」
 顔を上げ床に膝をついて、ダークと同じ目線になる。そっと、その包帯が巻かれた左手の上に自分の手を置いて、手と手を重ねた。
「でも、怖いって思うなら、無理して一緒にいなくてもいいんだよ」
「おれにはお前しか居ない」
「ダークを殺したのはぼくなのに?」
「それでもお前しか居ない。お前に殺されるのは怖い。でも、お前が居なくなったら、おれはどうしたらいいのかわからない」
「そっか、ありがとう」
 多分ダークにしてみれば、自分が思ったことを当たり前のように口にしているだけであって、この言葉がぼくにとっての救いの言葉だということに、きっとダークは気付いてない。
 空いている方の手をダークの頬にのばすと、少しの間をおいて、ダークが目を閉じた。
「どうしたの?」
「今なら目を閉じてもいいと、思えるんだ」
「なんで? 目を閉じちゃいけない時なんて……」
「今なら大丈夫だ。おれが目を閉じても、お前はおれを絶対に」



「殺さないから」
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