「ダーク?」
 食堂で朝食のパンを半分くらい食べて、紅茶のカップを取ろうと顔を上げると、テーブルの向こうに座っているダークが手にパンを持ったまま辺りをきょろきょろしているのが見えた。食事中に辺りをきょろきょろするのは行儀が悪いと、食事中の最低限のマナーは教えたつもりだったのに。
「ダーク、行儀が悪い」
「マルスがいない」
「え? ……あれ、ほんとだ。マルスがいないね」
 紅茶の入ったカップに口をつけたまま辺りのテーブルを見回すと、確かに何処のテーブルにもマルスの姿が見えなかった。いつもこの時間なら、自分の部屋で食事を作ることがないマルスは、ロイと一緒にここに来て食事を取っているはずなのに。
 それにマルスは寝坊をするような人間ではない。それどころかいつも早起きなくらいだ。今朝は食事を抜いたのだろうか。
 確かにマルスの性格を思うとあんまり食事は大事そうに思って居なさそうだし、忙しいときには一食ぐらい抜いても構わないと思っていそうだ。それでも、ファイターが食事を抜くのはよくないといつもマスターハンドが言っているのに。
「でも、ロイは居る」
 ダークが指差した先には、奥のテーブルに並べられた椅子に一人で座っているロイが居た。もう食べ終わったのかトレーを片付けようとしていた。慌ててリンクは手を振って、
「ロイ!」
 そう声をかけた。ロイはそれにちゃんと気付いて、トレーを戻して、食事当番のワドルディから茶色の紙袋を受け取った後に、自分達のテーブルに来てくれた。
「リンク、何か用?」
「マルスの姿が見えないけど、何かあった?」
「マルスは……今ちょっと公務に追われてて忙しいんだ。徹夜で大量の書類を片付けてる」
「そっか、そういえば昨日もマルスと会わなかったな。何か、手伝えることある?」
「気持ちだけでも十分って言いたいけど……マルスの代わりに僕が書類の整理をしてて。それで、それが思ったより大変で」
 困ったようにロイが笑って、頭を掻く。リンクはずっと持っていたカップを、テーブルの上に戻して、
「じゃあ、手伝うよ。それぐらいなら多分ぼくにも出来る」
「……助かるよ。食事が終わるまで待っているから」
 ロイが余っていた椅子に腰掛けた。リンクはダークに早く食べ終わるように目で訴えると、ダークもこくんと頷いてパンを口にする。リンクも早く食べ終わらなければと、慌ててパンを齧った。





 いつのまにかペンを動かす手が止まり、かくん、かくんと船を漕いでいたようだ。マルスははっとなって慌てて顔を上げて、目を覚ますべく頬を軽く叩く。書類にインクが垂れていないか確かめたが、どこにもインクは落ちていなかった。代わりに眠気のせいでかなり崩れてしまった自分の文字があるだけだ。
「(……眠い)」
 それもそうだ。昨日から一睡もしないで書類に取り組んでいるのだから眠くて当然だ。
 昨日の午後に急用だとマスターハンドに呼び出されて渡された、祖国から送られてきたという大量の書類は、今朝になっても三分の二ほどしか終わっておらず、しかも出来る限り早く、今日の夜までには片付けて送り返して欲しいときた。
 眠気のせいで消化するペースも大分落ちてきたので、今から頑張っても夜までにギリギリ終わるかどうかといったところだろう。
 それにしても本当に眠い。目を閉じたらそのまますぐに眠ってしまいそうで、瞬きをすることすら憚られるほどだ。寝てしまいそうになった時、いつもなら同居人がいればそっと自分に声をかけてくれるのだけれど、今は部屋に居なかった。
 貴族の嫡子という身分である同居人は、王族の自分の苦労を良く分かっていてくれているため、寝ずに書類に取り組んでいても文句の一つも言ってこないどころか、昨日から眠気覚ましにコーヒーを入れてくれたり、仮眠を取ると時間になれば起こしてくれたり、仕上げた書類を整理してくれたりと、とにかく自分を支えてくれていて、今回ばかりは本当に頭が上がらない。
 その同居人は今は朝食を取りに行っていて、食堂にいけない自分の食事も貰って来ると言っていた。本当は食欲なんてちっともないから朝食なんていらないのだけれど、食事を取らないと同居人は色々とうるさく言ってくるだろう。
 そんなことを思っていると、部屋の中に二回、ノックの音が響いた。同居人が戻ってきたようだ。
「マルス、寝ていませんか?」
 扉が開いて、小脇に茶色の紙袋を抱えたマルスの同居人、ロイが立っていた。
「あれ……リンクと、ダーク?」
 ロイの後ろには何故かマルスと親しい仲であるリンクと、いつもそのリンクの隣に居るダークが立っていた。マルスが自分を見ていることに気づくとリンクは、笑ってひらひらと手を振ってくれた。
「二人は僕の手伝いに来てくれたんです。僕達じゃ大変ですから。マルス……軽い食事を持ってきました」
「食欲、ないんだけどな」
「食べないと駄目です。今から紅茶を入れますから、少しでいいので食べて下さい。それと、一段落したら二時間ほど眠りましょう。時間になったら僕が起こします」
「眠る暇なんて……」
「倒れてからじゃ遅いです。少しくらいは寝て下さい。……僕だって本当は今すぐにでも寝かせてあげたいくらいなんですから」
 ロイと話している間もずっとペンを動かし続ける。ロイがそんな自分の姿を見て、小さくため息を吐き、紅茶の用意をしようとキッチンに向かう。ぼくも手伝う、とリンクがその後を追い、ひとり残されたダークが、マルスの向かいの椅子に座る。
「大変だな。王族ってそんなに面倒なものなのか?」
「ダーク、マルスの邪魔しちゃ駄目だって。忙しいんだから」
 棚から人数分のカップを取り出しているリンクが、椅子にちょこんと座ってマルスの文字を興味深そうに見つめているダークにそう釘をさす。あわててマルスは気にしなくていいと言って、
「いいよ。喋っているほうが眠くならなくて済むから。ダーク、僕が寝てしまいそうになったら起こしてほしいんだけど、いいかな」
 マルスの問いに、ダークがこくんと頷いた。
「この紙切れには、どんな意味があるんだ?」
「そうだね、徴税や軍備が上手くいっているとか、国の会議で決まったことや話し合ったことをこうしてここに居る僕に報告してくれたりとか……まぁ、とにかく色々あるね」
「ん、よくわからないな」
 しれっとダークがそう言ったもので、ちょっと笑ってしまう。だろうねと返して少しの間だけダークの表情を伺うべく顔を上げると、ダークがこんなこと聞くんじゃなかったというような感じの困った表情をしていた。
「でも王族は皆、お前みたいに徹夜でその紙切れに取り組まなきゃいけないときもあるのか」
「今回は特別だよ。今回みたいなときがそう何回もあってはたまったものじゃない。でも……これから先も極稀にそういう時もあると思う」
「その度にお前は、寝ずにその紙切れに取り組まないといけないのか」
「まぁ、そうなるね。でも自国の民のためだから、それはしょうがないことだよ」
「それは、凄く不公平だな」
 予想だにしなかったダークの言葉に、驚いて思わず絶えず動かしていたペンを止めて、顔を上げる。ダークはさも当たり前といわんばかりの顔で、続けて、
「王は国に一人しかいないってリンクは言っていた。つまりこんな苦労をするのもお前だけってことなんだろう? マルスの国にどれだけの人が居るのかおれにはわからないけど、どれだけ人が居たとしてもこんな苦労をするのはマルス一人だけだなんて、不公平だって思わないのか」
「不公平だなんてそんな、滅相もない……僕はただ王族としての務めを」
「じゃあ、そうならないといけなかったお前はかわいそうだ」
「……かわいそう? 僕が、かい?」
「ああ。少なくともおれにとっては、おまえは……」
「ダーク! 人に失礼なこと言ったらだめって、言ってるだろ!」
 キッチンでロイの手伝いをしていたはずのリンクがいつのまにかダークの後ろに立っていて、ダークの頭を掴んでテーブルの上にごつん、と頭を押し付け、無理矢理ダークを黙らせた。
「マルス、ごめんね。ダークが変なこと言って」
「……気にしなくていいよ。それよりも、ダークを早く離してあげて」
 言われたとおりにリンクがダークを解放してくれた。むくりと頭を上げたダークは、自分が言ってはいけないことを言ってしまったと気付いたのか、すぐに自分にぺこりと頭を下げてすまないと謝ってくれた。
 ダークは魔物として生まれてきて、自分と同じ顔の青年であるリンクと出会うまで魔物として生きてきた分、人間の常識は殆ど知らない。一緒に会話をしているとマルス達とは価値観などに多少のずれが生じている分、外見は同じでもそこに種族の違いという壁があると身に染みてよくわかる。
 現にマルスが初めてダークとちゃんとした面識を持ったのは、怪我をしたまま寮内をふらふらしていたダークを偶然マルスが見つけて手当てをしてあげた時だった。
 その時も帰り際にさらりと、マルスのことを笑ってばかりで気に入らない人間だとと言われてしまったのだ。
 本人は普通ならそれは他人に言ってはいけないことだとわかってはいなかったので、そこに悪意はなかったとわかっているから自分はこうして許しているし、あとでリンクにこっ酷く叱られたと聞いたので、もうそう口にすることはないだろう。
 ただ、人間での常識というものをよくわかっていないぶん、時折突拍子もない言動をするときもある。勿論それが失礼なものである時もなくはないけれど、彼の突拍子にない言動には度々驚かされる。リンクも時折凄く驚かされると、言っていたか。
 そして普通の人なら自分の身が不公平だとか、可哀想だとか、そんなことを言われてしまえば勿論不快になる。同情をされるのは、あまりいい気分ではない。
 けれどダークにそう言われるのは、いつもとはちょっと違う気持ちになる。その気持ちをなんと言うべきかマルスにはわからないが、とりあえず不快ではない。
 それも、彼が知らないことが多いからなのだろうか。価値観のずれから生じるものか、ある意味で純粋故のものか。
 ダークは一応リンクから聞いて、王族というものの存在は知っているだろうけれど、それが何のために居て、何をするのかはこの調子じゃわかって居なさそうだ。だからこそ、素直にそう思うことが出来るのだろう。
「マルス、どうかした?」
 リンクが、マルスが怒ってしまっていると勘違いしているのか、恐る恐るマルスに声をかける。
「あ、いや、なんでもないよ。……そうか、僕が不公平で可哀想、か」
「ごめんね。ダークが変なこと言って」
「怒ってるわけじゃないよ。こんなことを言われるなんて思ってなかったから、驚いてはいるけれど。……ダークは、僕を心配してくれたの?」
「ああ。リンクが言っていた。お前とおれは友人で、友人はそういうことをしても、おかしくないって」
 それを聞いて、ダークの言葉を聞いたときから心の中にあった気持ちの正体がやっとわかった。自分は今、嬉しいのだ。自分のことを殆ど知らないけれど、ただただ純粋に自分を心配してくれることが。
 その嬉しさが顔に出て、思わずくすくすと笑ってしまった。リンクとダークが、それぞれぽかんとした顔でマルスを見つめている。マルスはそんな二人をよそに、ロイを呼び止めて、
「ロイ。客人に出す用の、取って置きの茶葉を出して欲しいのだけれど」
「え? ……いいんですか?」
 それに対して、マルスはにっこりと笑って。
「いいんだ。大切な友人には、ちゃんとした持て成しをしないと、ね?」
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。