「これで、おれはお前の「影」ではなくなったんだな」
「……うん。でも、きみは「勇者リンクの影」になった」
 何かを半ば諦めているような表情で、彼が呟く。
「……もう、おれは鏡に映ったおまえじゃない。お前はこれから老いていくだろう。けれどおれは老いていかない。おれを見てもそこに映るのは……今のまま時が止まったお前の姿だ」
「わかってるよ。……それでもこれを望んだのは、ぼくだから」
 自分という鏡が鏡でなくなる瞬間。鏡はもう彼の姿をそのまま映すことは無い。
 自分は一度死んだ。彼の剣で胸を貫かれて。
 けれど彼の強い望みによって再びこの世界に蘇ることが出来た。六賢者がガノンを影の世界に追いやる際に、その力を使って自分は再び生を受けた。
 しかし、その時に鏡の中の時間は止まってしまった。彼の姿を映したまま、永遠に。――いや、もしもまた世界が闇に包まれて、勇気のトライフォースの力を宿した勇者が現れたのなら、自分はその人物の姿を映し出すだろう。
 そして、その人物の姿を映し出す代わりに、止まったままの彼の姿を消してしまうのだろう。
 でも、これで結ばれた。叶うはずのない願いが叶ってしまった。嬉しいのだ。嬉しいはずなのだ。

 だったらどうして、こんなに悲しい気持ちになるのか。



 今日も眠る。どうせすることが無いから。
 時間の感覚なんて無いに等しい。あの時から人前に姿を現すことなど無くなってしまったから。
 それでも時間はどんどんと自分の目の前を通り過ぎていく。別に自分が何もしなくても早々と時間は過ぎていくから、有難いものだ。
 あの時から、考えることが殆ど無くなってしまった。考えるだけのこともない、というのもあるのだが。
 何も考えない。誰にも姿を見せない。それなら自分は今、死んだも同然なのだろう。
 ……もしも、本当に死ねたとしたのなら、どれだけ楽なことだろうか。生きている意味なんてとうの昔に失った。それでも尚、自分は生き続けている。死ねないから。
「(それでも……忘れていない)」
 そう。もう死んだも同然の状態でも、覚えている。彼の姿を、声を。

 ――忘れたりなど、するものか。



 あれから何十年、何百年経ったのか。水の中に居ては時間の感覚なんて分からないし、仮に分かったところで分かろうともしなかっただろう。
 それでも、目の前に映る景色があれからどの位の月日が経ったのか教えてくれる。
「(ざっと500年くらいか……?)」
 草木の緑や空の青さは変わらない。けれど記憶の中にあるハイラルの風景とは随分と変わってしまった。
「……相変わらず何もないんだな」
 風に吹かれながら思わずそう呟く。何百年も経っているのなら、少しくらい文明も発達していたっていいはずなのに。
 ――何百年も経っているのなら、彼は勇者として人々に崇められて居るのだろうか。ふと、そう思った。
 外の世界に出なくなってからかなりの時間が過ぎた。時間が経てば、民衆の考えが変わる可能性だって十分に有り得る。価値観の変化により、彼は勇者から一転して悪者へ……そんなこともあったって何ら不思議ではないのだ。
「(もう、誰も覚えていないんだな)」
 彼の姿を知っているものは皆この世に居ない。自分を除いて。緑の服で、金色の髪に青い瞳。それらを今でも鮮明に思い出すことが出来るのは、自分だけ。そう思い、水面に映った自分の姿を見る。
「……?」
 水面に映ったのは表情が強張ってはいるが、紛れもなく自分の顔だ。銀色の髪に赤い瞳、黒い服。
 でも、違う。髪の色も瞳の色も、服の色だって記憶の中の自分の姿と変わらないのに、どこかおかしい。これは自分なんかじゃない。
 恐る恐る自分の顔に触れ、冷たい頬をなぞる。水面に映った顔も鏡合せに頬をなぞる。
 違う。彼はこんな顔じゃなかった。記憶に映る彼の笑顔とは明らかに違う。ゆっくりと頬をなぞっていた指が、やがてぺたぺたと自分の顔をまさぐる。先程と同じように水面に映った顔も鏡合せに顔をまさぐる。
「誰なんだよ。真似……するなよ」
 そうだ。水面に映った顔は自分なんかじゃない。誰かが自分の動きを真似ているのだ。
 そう無理矢理思い込ませて、目蓋を強く閉じて、有り得ない望みに胸を寄せる。
 目蓋を開けた時に何かが変っているわけもなく、水面に映るのは、相変わらず記憶に残る彼の顔とは違う顔。
 分かっている。これが自分の顔だって事くらい。そして、何故記憶の中の彼と違うのかも、先程自分自身に問いかけた疑問は、全て。
「(……そうだダーク。お前は大切なことを忘れている)」
 確かに自分はあの時から彼の姿を映したまま時が止まってしまった。もう二度と、彼の姿をそのまま映すことはない。
 ただし、一つだけあった。時が止まったままの鏡が再び動き出す方法が。
「(新しい勇者が……現れた?)」
 そうだ。また世界が闇に包まれて、勇気のトライフォースに選ばれた者が現れたのなら、「勇者リンクの影」である自分は鏡に映ったままの彼の姿を消して、そして新しい勇者の姿を映し出す。
 ――つまり、既に自分は完全に彼の影ではなくなってしまった。新しい勇者が現れたから、自分は新しい勇者の姿を映し出して、その勇者の影になっただけのこと。
「おれは……もう……」
 こうなることは初めから知っていた。それでも、実際に起こってみると、あまりに辛過ぎる。

 頭の中で何かが切れた気がした。
 それが自分と彼を辛うじて繋ぎ止めていた脆い絆だということに気付くまでに、時間はかからなかった。





「リンクは……まだあんたに会うのを躊躇っている」
「……そんなことだろうと、思ってた。姿も見せないどころか湖や川に近づきもしないしな」
 湖の畔にある岩に腰掛け、ダークが言う。
「だからリンクはそのままあんたに顔を見せず、影の領域に行くつもりだ。……ワタシも説得はしたんだが、聞く耳を持ってくれない」
 あんたがあいつの命を救ったのに。すまない。とミドナが謝る。ダークはたいしたことない。とばかりに笑って、
「どうしようがあいつの勝手だしな。……それにあいつが姿を見せなくても、あんたがおれの前に現れてくれるのなら、あいつがおれを嫌っていないってわかる」
「……あんたは、それでいいのか」
「別にいいさ」
 今までのことに比べたら、会えるだけでも十分だから。と小さく、自分に言い聞かせるようにそっと目を閉じて呟く。

「でも、もう怪我はするなって、言っておいてくれよな」





「……素直じゃねぇ奴」
 ミドナが去って、一人になったダークは岩に腰掛けながら吐き捨てるように呟いた。
 思えば、あの時の彼もそうだった。大怪我を負って自分がその傷を治したところ、申し訳なさからか二週間ほど湖に近寄らなかったのだ。
 あの時、申し訳なさそうな顔をして岩場の影から姿を現したあの時の彼の姿は、よく覚えている。確か……確か……。
「(……あれ?)」
 記憶の中のあの時の彼がやけに霞んで見える。あの時の彼の顔にもやもやとした霧のようなものがかかっている。それがあるせいであの時の彼の顔がちゃんと見えないのに、拭おうとしても拭えない。
「(もしかして……おれは……)」
 ――あの時の彼を、忘れかけている?
「(嘘だ。そんなはずは……)」
 そう思って、あの時の彼の顔を、声を思い出そうと必死に自分の中の何百年の記憶を探す。だが、必死に粗探しをすればするほど、記憶の中のあの時の彼はどんどんあやふやになっていく。
 最悪だ。あの時の彼を映し出す鏡でなくなっただけでなく、あの時の彼を、忘れかけているだなんて。
 忘れたくない。あの時の彼を。蜘蛛の糸のように脆い、自分たちの絆がとっくのとうに切れてしまっていても、それに縋り付く自分は、さぞかし滑稽だろう。
 それだけ、あの時の彼を忘れたくないのだ。あの時の彼に自分の代わりなんて居なかったように、自分にもあの時の彼の代わりなんて居ない。
「嘘だ……こんなの……」
 銀色の髪を掻き毟りながら、ダークは力無く地面に膝をついた。



「(リンクは……もうすぐガノンドロフを殺すだろうな)」
 仮にザントを殺したところで、ガノンドロフの力があればまたザントは甦る。ザントが甦れば、ハイラルはまた影の領域となる。そうならない為には如何すればいいのかなんて、酷く簡単だ。ガノンドロフを殺してしまえばいいのだ。
 もしもガノンドロフが死んだら、自分はどうなるのだろう。ふと、そんなことを考えてみた。
 元々自分は人間ではなく、魔物なのだ。ガノンドロフの力によって生まれて、ガノンドロフの力によって生かされている。今だってそうだ。ちゃんと自我があっても、人間に襲い掛からなくても、自分は魔物だ。
 一度あの時の彼に剣を向けて、命を落として、それでも記憶も体もそのままに甦ることが出来、今尚不老不死で居られたのはガノンドロフの力があるからなのだ。
 だとしたら、もしもそのガノンドロフが死に、自分の命を作る力を失ったのなら、自分は……
「なんだよ。おれって……」
 ガノンドロフが死んだら、自分も一緒に死ぬのだ。自らの命を作り出す力を失って。
 普通の人間のように死ぬのか、或いは魔物のように塵となって消えてしまうのか、一度死んだときのように水に溶けて消えてしまうのか。どんな風に死ぬのか分からない。それでも、不思議と怖くは無かった。
「(これで、やっと死ねる)」
 むしろ、そういった思いの方が強かった。
 これでやっと、呪いの様なトライフォースの運命から開放される。そう考えると、死は全く恐ろしく感じられない。
 けれど、彼が居る。あの時の彼とそっくりの風貌と性格をしているけれど、やはり少し違うところがある彼が居る。
 だったら、自分が死んだら彼はどうなるのか。
 自分のことなど気にしないだろうか。世界を救った勇者として崇められているうちに、いつか自分のことなど忘れてしまうだろうか。
 今、胸の中には拭えない罪悪感がある。置いて行かれていたことを嘆いていたのに、今度は置いていく側になって、彼を取り残してしまうという罪悪感が。
 けれど、もしかしたら彼は置いていかれることも全く気にしていないかもしれない。だとしたら、なんて自分は滑稽なのだろう。
 置いていかれることを彼に悲しんで欲しいのか。……ただ単に、愛されたかっただけなのか。心の中の何百年という空白の時間を、彼に埋めてほしいのだろうか。
「……早く、死にたい。そして、あいつと同じ位置に立ちたい」
 ――そう思っている。自分の中の記憶が気の遠くなるような長い時間に負けて、彼の姿に霧をかけてしまったとしても、あの時の彼を思う気持ちは変わらない。だから、そう思っているはずなのに。
「けどおれは死にたくない。……今のあいつと一緒に居たい」
 そう考えてしまう。あの時の彼をまだこうして引き摺っているのに、今の彼に思いを寄せている。
 勿論最初は憎かった。殺してしまおうかとさえ思った。今の彼が居るせいで、自分はあの時の彼の姿を映さなくなってしまったから。
 それなのに、そう思っていたはずなのに、あの時の彼と同じようでどこか違って、違うようでどこか同じ今の彼を、好きになってしまった。
「馬鹿だよな、おれ。……わかってる」
 馬鹿みたい、いや、馬鹿だと自分で思う。あの時の彼を今でも想っているのに、今の彼を好きになってしまっただなんて。
「……でも、願ったっていいだろ? あと少しの命なんだから」
 その願いはなんて贅沢で、我侭なのだろう。そして、願う前からこの願いが叶わないことなど分かっていた。
 叶わないからこそ願いたい。こんな叶うはずのない願い事は、もしかしたら単なる夢なのかもしれない。それでもいい。死んでしまったら願うことも出来なくなるから、その前に願っておきたいのだ。
「なぁ……いいよな……? そう願ったって、いいよな……?」
 周りには誰も居ないのだから、問いかけたって勿論誰からも返事は返ってこない。
 それでも続ける。自分の中の、あの時の彼に語りかけるように。

「おれがずっとあいつと同じ時を歩んで……それでいて、おれは今のあいつといつまでも一緒に居られる。……そんな未来が、欲しい」
 ――ああ、なんて我侭な願い。
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