――翌朝、またシーツが湿っていた。ここまでくると流石に怪しくもなってくる。
 それに昨日はそれほど暑くは無かった。むしろ、涼しかったと言っても良いくらいだったのに。
 では、一体何なのだろうか。何もないのにシーツが湿るようなことがあるのか。普通に考えて、そんなことは有り得ないだろう。でも、いまこうしてダークが触れている部分は湿っている。
「……どうかした?」
 昨日と同じようにリンクが覗き込んでくる。ダークは首を横に振って、なんでもないと言う。
 それに対して、リンクは何か、思い詰めたような表情をして俯いてしまった。その後、リンクは徐に口をそっと開き、
「ダーク。その……ぼくは……君に……」
「どうした?」
 しどろもどろなリンクの言葉をどうにか聞き取ろうとしたが、リンクは結局何も言わず、その顔を思い詰めたような表情から笑顔に変える。
「ううん。なんでもないんだ。……ご飯、食べようか」





「ダーク、布団の洗濯をしたいんだけど、手伝ってくれないかな」
 ダークが少し焦げたベーコンにフォークを突き刺し、口に運ぶその瞬間に、リンクが口を開いた。
「別にいいが……どうして」
 フォークを皿の上に置いて何も知らないふりをするが、頭の片隅ではリンクがどうしてそんなことを行き成り言い出したのか、わかっていた。一昨日の朝からあるシーツの染みのことだろう。
 その正体がなんなのかは未だ分からない。――いや、どことなくわかっていることはいるのだが、確固たる証拠はないから憶測の域を出ないし、そして何より、自分がそれを認めたくないのだ。
 リンクはそんなダークの考えをよそに、にっこりと笑って、
「ほら、今日は晴れなのに涼しいし、風もある。きっとこんな日に洗濯をしたら気持ちいいよ。ちょっとしたお菓子とお茶を持っていって、洗濯物が乾くのを待つんだ。ね? いい考えだろ?」
 リンクの顔は笑っていた。しかしその碧眼の中には少しの悲しみと、焦り。やはり、シーツをこのままにしては何かリンクにとってまずいことでもあるのだろう。
 しかしそれでも、リンクが持ち出した話は悪いものではなかった。むしろ、魅力的なものだと言えた。
 ダークは、こくりと頷いて、
「わかった……手伝う」



「ね? やっぱりさ、ここに来てよかったと思わない?」
 洗って真っ白になり、木の枝にかけられたシーツと洗濯物の間を踊るようにくるくると回りながら、リンクがそう言った。
 言われたとおりにシーツとシャツを洗って、自室のベランダで干そうとダークは言ったのに、リンクは外、しかも人通りの少ない、寮から少し離れたところにある小さな庭園で干したいと言い出した。流石に遠くはないのかと思ったが、リンクの頼みと言うのもあり、仕方なくダークは洗濯籠を抱えてその場所へと向かった。
 中庭に行けば大抵誰かの姿が見られるが、この小さな庭園に人は滅多に来ない。むしろ、自分たち以外のメンバーはここの存在すら知らないのではないかと思う位、ここに人は来ない。
 しかし、花壇は中庭の花壇と同じように手入れをされている辺り、マスターハンドは一応、ここの存在は忘れて居ないようだった。忘れていてもオリマーやピーチ辺りが手入れをしてくれるだろう。
 ダークはクッキーとポットに入れた紅茶が入ったバスケットを床に置いて、近くのベンチに腰掛ける。
「……ガキみたいな奴」
 小さく、そう呟いて、バスケットの中からクッキーを一枚取り出して齧る。ほどよい甘さで、おいしかった。
 カップも取り出し、冷やした紅茶を注いで口に運ぶ。花の香りの代わりに、紅茶の香りが辺りに広がる。
 彼の淹れる紅茶の香りも、彼の焼くクッキーの甘さも、いつもと変わらない。ただ自分たちが変わっただけで、それ以外のものは何一つ、空の色も、シーツの白さも、過ぎる時間も、前と変わらない。
「(……そう。おれ達が、変わっただけ)」
 自分は残り僅かの命となって、彼はそんな自分を受け入れてくれた。――ただそれだけ、本当にそれだけのことで、どうしてこの目に映る世界がこんなに変わって見えるのだろう。
 ダークはそっと目を伏せる。すると疲れていたのだろうか、どっと睡魔が襲ってきて、どんどん遠くなっていくリンクの笑い声を聞きながら、そのまま眠りについてしまった。



 風が吹いて、ダークの銀色の髪を揺らした。揺れた髪がダークの頬をくすぐり、そのくすぐったさに目が覚めてしまった。目蓋をゆっくり開けると、ダークの赤い瞳に笑顔のリンクが映った。
「ダークの寝顔、子供みたいだった」
 くすくす笑いながら、リンクが言う。――その目が僅かに赤かったのを、ダークは見逃さなかった。
「おれが子供みたいな寝顔だったなら、お前もそうなんだろ? ……おれ達は鏡なんだから」
「そうだね、ぼくらは、鏡……シーツ、もう乾いたよ」
 取りに行こうか、とリンクは言って、ダークの手を引く。寝起きで重たい体を動かして、ベンチから立ち上がった。
 二人で木々にかけてあったシーツをとって、丁寧に畳んで、籠の中に入れる。
「おっと……!」
 もう一枚のシーツを取って畳もうとした時、シーツを踏んでしまっていたのだろう。リンクが転んでしまった。ダークはとっさにその体を受け止めようとしたが上手くいかず、二人ともシーツを挟んで地面に倒れこんでしまった。
「あのなぁ……」
 溜息を吐いて、ダークは顔に被さっていたシーツを払う。溜め息を吐くダークとは違い、リンクは腹を抱えて実におかしそうに笑っていた。
「もう一回洗濯しなおさないといけないんだぞ……? わかるか?」
「別にどうせ今日も二人で寝るんだから、シーツは一枚あればいいよ」
「……ったく」
 しょうもないやつ。と溜息を吐くと、ふっと、リンクの顔から笑顔が消えた。真剣な目で自分を見てくる。
「ダーク」
 不意にその手がそっと、自分の頬に触れた。その手は自分の頬を上から下へとそっと撫でて、やがて自分の唇に触れる。
 先程までふざけあっていた筈なのに、その声色にはふざけた様子は一切感じられなかった。
「……なんだよ」
 ダークの問いに、リンクの表情がまた元の笑顔に戻った。リンクはゆっくりと、シーツ越しにダークの胸に顔をうずめて、
「……ずっと、大好き」
 もしも今、時が止まってくれたら、自分達はどれだけ幸せだったことだろう。この一瞬が永遠に変わり、辛い未来が無くなって、幸せな今だけがそこにあって……そう思うだけでも、涙が零れそうだった。
 だが、神様はそんな願いは聞き届けてはくれないから、一瞬が永遠に変わることはない。そもそも自分に未来など初めから無い、自分にあるのは過去と、目まぐるしく流れる今だけ。その今すらも、やがて消えてなくなってしまう。
 辛い現実に唇をそっと噛み締め、リンクの背中に腕を回して、
「……おれもだよ」






 その後、汚れたシーツはもう一度洗いなおす羽目になった。洗いなおしたシーツは夜までには間に合わなかったが、確かに彼の言ったとおり一つのベッドで二人が寝るのだから、シーツは一枚あれば十分だった。
 今日は昨日と違い妙に寝苦しい。中々寝付けないし、やっと寝付けたとしても何度も同じだった。どうやらそれは彼も全く同じだったらしく、離れて寝るかと聞いたが、彼はそれを拒んだ。
 そして、何度目だか分からないほどに眠りを妨害され、がちゃん。という音を耳が捉えた。それと同時に喉がカラカラに渇ききっているのに覚醒しきっていない頭が気付いて、気だるいながらも半身を起こす。
 ベッドがやけに広く感じた。ベッドの方を見る。真っ白なシーツと、これまた真っ白な毛布だけが映っていた
 そして、数秒経って寝起きの頭がやっと今の状況を判断してくれた。リンクが居ない。慌てて部屋全体を見回す。――どこにも彼の姿は見られない。つまり、さっきの音は彼が部屋を出て、ドアが閉まる音だったのだろうか。
 テーブルの上の水差しからコップに水を注ぎ、その水を飲み干す。そしてすぐにダークは部屋を出て、彼を追いかけた。広い廊下は足音が非常によく響くから、彼の足音もよく聞こえる。これでどうにか彼を追って行けるだろう。足音を立てないように、そして彼の足音を見失わないように、そっと歩く。
「(そっちは……中庭?)」
 どうやら彼は中庭に向かっているらしい。何の目的があって中庭に行くのかは分からないが、どことなく、嫌な予感がした。
 嫌な予感で胸の中が満たされ、凄く苦しい。あまりの苦しさに、しわが残るほど服を握り締めた。 どうしてこんな時に自分は、全てを打ち明けたときの彼の震える肩を、笑顔の裏にあった充血した目を、ふとした瞬間に浮かべる悲しげな表情を、思い出しているのだろう。
 暫くして、足音と同時に何か別の音が聞こえるようになってきた。その音の正体を知るべく、ダークは早足で更に彼に近づく。風の音でもなければ、自分たち以外の足音でもない。すすり泣く様な、音だった。
「(泣いているのか?)」
 よく耳を澄ますと分かった。それは間違いなく嗚咽だった。一人で、こんな夜中に、彼は廊下を歩きながらすすり泣いているのだ。不思議と彼を追う足が速くなる。
 中庭に出る扉の前で、ダークは足を止め、扉の影から彼の様子を伺うことにした。彼は夜の中庭にぽつんと一人、棒立ちになっている。
「ダーク……ダーク……っ」
 彼は膝を抱えて、夜空の下でそっと泣き始めた。嗚咽と、自分の名前を呼ぶ声が中庭の静寂を阻み続ける。
「(……ああ)」
 今なら分かった。彼は毎晩ここで泣いていたのだ。辛くて辛くて、毎晩ここで涙を流して、明け方になって部屋に戻っても涙は止まらなくて、自分に気付かれないよう静かに涙を流してシーツを濡らしたのだ。
 どうして、今まで気付けなかったのだろう。少し考えればわかったはずなのに。
 そんな自分の後悔をよそに彼はひたすら涙を流し続ける。自分が後ろに居ることなんて気づかずにただ、ひたすら。
 その場から動けなかった。今すぐ彼に駆け寄って、抱き締めてやればいいのかもしれない。そうすれば、少しは彼も自分も楽になれるだろうか。けど身体は動かなかった。足が鉛のように重くて、彼のほうに歩み寄ろうと足を動かそうとしても、全く動けなかった。
 どうしてこんな時に勇気が出ないのだろう。ただ駆け寄って抱き締めるだけでいい。たった、たったそれだけのことなのに、何故それだけのことが出来ないのか。
 今まで、怖いことなんてなかった。人を殺すのなんて魔物に生まれた以上当たり前のように思っていて何も感じたことはなかったし、自分の命が人よりも短いことなど初めからわかっていたから、そんなこと諦めていた……つもりだった。
 生きることへの執着心もなかった。もともと自分はあの時死ぬ運命だったのだ。そして実際に死んだのだが、彼の強い望みにより生き返ることが出来た。でも生き返ったから、今度はちゃんとした人生を生きようとか、そういうことは考えなかった。
 生きることも死ぬことも全部全部どうでもいいと思っていた。けれど彼は自分がそういうことを考えるのを嫌がる人だったし、彼は自分を愛していてくれた。だから、消えるその日までは、生きていこうとは思った。
 もう一度死んだら死んだで、そこまでの命。もう、三度目はない。
 でも自分が本当にあと少しの命だと知った瞬間から、急に全てが惜しくなった。急に消えることが怖くなった。
 目の前にある全てを失いたくないと思った。ずっとこのまま、まどろみながら優しさに包まれていたいと思った。諦めていたはずだったのに。
 しかしもう遅い。失いたくないものをこの手で掴んで放すまいとしても、その掴んでいる手が消えてしまうのだ。失いたくない、怖いだなんて思ったところで、今更どうにもなりはしない。
 消えるのが怖かったということに気付くのが、あまりに遅すぎたのだ。今、この瞬間にも着々と自分は死へと歩いている。死が、迫ってくる。それが、とてつもなく恐ろしかった。
「早く、死にたい。そして、あいつと同じ位置に立ちたい」
 戸惑っているダークの後ろから、自分の声と全く同じ声が聞こえた。振り返ると、そこには半透明の姿の、自分と全く同じ姿、同じ顔の青年がそこに立っていた、その目は、どこか遠くを見つめていた。リンクかと思ったが、髪は自分と同じ銀色だった。
「けどおれは死にたくない。今のあいつと一緒に居たい」
「誰だ?」
「馬鹿だよな、おれ。……わかってる」
 問いかけても反応は無い。静かな寮内には、その青年の声だけが響き、中庭には、彼の嗚咽が響く。
 言動の一つ一つが、どこか自分に引っかかって、青年から目を逸らすことが出来ない。ダークはぎゅっと唇をかんで、その青年の呟きに耳を澄ました。
「……でも、願ったっていいだろ? あと少しの命なんだから」
 不思議な感じだ。自分はたくさん創られた模造品の中の一人なので、自分と同じような模造品はいる。いるというよりは、いた。の方が正しいだろうか。
 でもこの青年は、マスターハンドが言っていた、どこか、こことは違う別の世界の、もう一人の自分のような気がした。
「なぁ……いいよな……? そう願ったって、いいよな……?」
 その言葉に、突き動かされた気がした。いや、きっかけなんて始めからなくて、ただ踏み出す勇気か、はたまた踏み出す理由がなかっただけなのかもしれない。だが、今はもうどちらでもよかった。ダークは彼の元へ駆け出した。
「リンク!」
「……? ダー……ク……?」
 彼の名前を叫ぶ。彼の元へ走って、一秒でも速くこの腕で彼を抱き締めたかった。彼はダークが自分の事を呼んでいることにすぐに気づいたが、暫く唖然とした顔でこっちを見ていた。
 しかしこっちの方へと駆け寄って、リンクはダークに抱き付く。
「消えたくないって、消えないって言って!」
「リンク?」
「お願いだ。消えたくないって……消えないって、言って……」
 そっと背中に腕を回して、泣き崩れる彼の背中をさする。彼は嗚咽交じりに、同じ言葉を繰り返す。
「君が消えないのなら、どんなことだって……ぼくは世界だって見殺しに出来る。こんな運命を定めた神様が居るのなら、ぼくは神様だって殺せる。だから、お願いだ……」
 神々の寵愛を受けた勇者とは思えない言葉。普段の彼ならば、絶対にこんなことは口にしない。つまり、それだけ必死だということなのだろう。それだけ自分は、愛されていることなのだろう。
「おれは……おれ、は……」
「ダークは確かにぼくの模造品かもしれない。でも、ぼくには君の代わりなんてどこにも居ない。居たとしてもそんなの……ぼくの知ってるダークじゃない!」
 やはり自分は心から、この人に愛されているのだ。それが泣きたくなるほど嬉しくて……悲しくて。
 消えないことが無理なことなんて初めからわかっている。勿論彼もそんなことわかっているだろう。それでも、それを完全に受け入れられるほど自分達はよく出来てはいない。
 無理と分かっていながらありえないことにすがりつく。よく出来てはいないから、そうでもしないと、あまりにも辛過ぎて、壊れてしまうかもしれないから。
 ダークはリンクを抱く腕に力を込めて、彼の耳元で、
「消えない。おれは絶対に……消えない」



「おれがずっとあいつと同じ時を歩んで……それでいて、おれは今のあいつといつまでも一緒に居られる。……そんな未来がおれは、欲しい」
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。