もし、自分に兄弟や姉妹が居たら。
 一人っ子だったら、そう考えたことは誰しも一度くらいはあるはずだ。
 実際にぼくも、幼い頃から何度も何度もそんな想像をすることがあった。
 親と喧嘩をした時、仕事の都合で親が夜遅くにならないと帰って来ない時、学校や友達の家から一人で自宅に帰る時、そんな時にはよく自分に兄弟が居たら、なんてことを考えていた。
 兄弟が居たら、喧嘩をした自分を慰めてくれるんだろうな。
 兄弟が居たら、ここぞとばかりに夜更かしをして遊ぶんだろうな。
 兄弟が居たら、帰り道だって寂しい思いをしないで済むんだろうな。
 小さいころの自分は、いつもそんなことを考えていた気がする。
 普通なら、自分に新しい弟や妹が出来るかもしれないと思うところだろうけど、生憎ぼくは家が家だったから、そんな期待を抱くことは許されなかった。

 でも、もし自分に兄弟が出来るのなら、ずっと弟がいいって思っていた。
 それも普通の弟じゃなくて、双子の弟がいい。
 出来れば顔もそっくりだけど、中身は全然似てなくて、でもふとした仕草なんかにぼくとそっくりのところがある。そんな双子の弟。
 そんなの居るわけないのに小さい頃暇な時はよく、もし双子の弟が居たら何をして過ごそうとか、何をして遊ぼう。そんなことを考えていた。

 でも、自分に兄弟が居たらいいのにって気持ちは、今も変わっていない気がする。





 ぱたん。
 手から滑り落ちたシャーペンが、半分以上が真っ白のプリントの上を転がる。
「……っとと」
 机から落ちてしまう前に、急いで指先で転がるシャーペンを止めるが、もう一度それを握りなおし、課題のプリントに取り組むつもりには、なれそうにない。
 多分、集中力が限界に達したんだろう。三日後には出さないといけない課題のために、四時間ぐらいずっと机に座っていたんだ。課題はまだ終わってないけど、それなりによく出来たとは呼べるはず。シャーペンをケースに戻し、大きく背伸びをして椅子にもたれかかる。今やすっかり小さくなった学習机の椅子が大きく軋んだ。
 窓のほうを見る。カーテンとカーテンの隙間から、街灯の光が見えた。椅子から窓までそれなりの距離があるので、ここから見えるのはその街灯の光だけだ。
 小さい頃、父親に勉強をしろと勉強机に座らされたときは、勉強をせずによく窓の外の景色を見て暇を潰していた。ここは住宅街のど真ん中だからいつも人の姿はまばらだし、特に見ていて面白いものがあるわけじゃない。でも言われたとおりに勉強をしているよりはずっとましだったから、よくそうしていたんだ。
 それでもたまに見つかって、父に怒られることもあった。前はあんなに鬱陶しく感じていたのに、いざなくなってみると、そんな父の怒鳴り声もどこか懐かしく感じられる。
 今、家に居るのはぼく一人だ。
 それはちょっと親が出かけているとか、そんな意味じゃない。そのままの意味で、親はもう「居ない」から、ぼく一人だけというわけだ。
 幼い頃に両親が離婚して、母はこの家を出た。それから母に会ったことはないし、両親が離婚したのは物心がつく前。その上写真や母の所持品はもう全て処分されているので、母の顔も声も、ぼくは覚えていない。
 一方ぼくを引き取った父は、一年前に事故で亡くなっている。車の事故だった。
 たよれる親類は父より早くに皆亡くなっていたせいで、一人も居ない。ぼくの元に残されたのは、高校生のぼくには不釣合いなほど広い家と、父の事故による保険金だった。
「……はぁ」
 ぐったりと椅子にもたれかかったまま溜め息をつき、弾みをつけ椅子から立つ。
 そのままカーテンを引き窓を開け、ベランダに出る。
 手すりにもたれかかる。金属の手すりと頬に当たる夜風が涼しくて、一息つけそうだった。時計は見ていないけど、多分もう12時を回っている頃だろう。勿論元々人通りの少ないこの辺りに、人の姿なんて殆ど見られないはずだ。
「ん?」
 そうは言ったし、実際にさっき言ったことは間違っていないはずだけど、家の前の道……ちょうどあの街灯の下だ。そこに、誰かが立っている。
 その人が立っているのは電灯の下。――つまりうちの前だ。向かいの家かもしれないけど、あいにくうちの向かいは空き地なので、そこに立っているということは、うちに用があると思っていいのだろうか。
 フードを被っているからここからだと顔は見えないけど、背は大体ぼくと同じくらいだろう。俯いたまま、ぴくりともしないかと思えば、時折その場で立っているだけなのに、ここからでもわかるくらい体がふらついている。体が弱い人なのだろうか?
 それにしてもこんな時間にフードを被って、家の前に立つような人なんて覚えがない。友人がふざけていたずらでもしているのかと思ったけど、こんな時間に、それもぼくが見つけてくれる保障だってないのにいたずらを仕掛けてくるような友人は居ない。――そう考えているうちに、もしかするとあの人は変な人じゃないかって、少し不安になってくる。
 せめて、あの人の顔さえわかれば。
 そう思って、ベランダから体を乗り出す。手すりにさっきよりも体重をかけたので、ぎし、と手すりが軋む音が辺りに響いた。
 手すりが軋む音にあの人もこっちの存在に気がついたのか、俯いたままだった顔を上げる。それと同時に、少し強い風が吹いた。
 それらの弾みで、あの人が被っていたフードが取れた。
「……!」
 息を呑むという言葉は、多分こんな状況のことを指すんだと思う。
 あの人の顔は、ぼくそっくりだ。勿論髪の長さや表情なんかは違う。でもその顔のつくりはぼくそっくりだ。ほぼ同じと言っていいくらいに。自分のそっくりさんが、目の前に現れた。そんな小説なんかでよくあるストーリーがここで実際に起きているんだ。驚かないわけがない。
 幼い頃の自分の空想を思い出した。
 一人っ子だったぼくが、学校の帰り道や父の出張の間によく考えていたことだ。自分に兄弟が居たらいいのにな。兄弟が居たら何をして遊ぼうかな。そんな他愛もない、一人っ子なら良くある空想。
 確か幼い僕は、こう思っても居たはずだ。
 兄弟がいたとするなら、双子の……それも自分そっくりの弟がいい、と。
 ごくりと喉を鳴らして、唾を飲み込む。その音で少し我に返れたような気がして、もう一度、こんどはもっとちゃんとあの人の目を見てみる。
 その瞳には、何にも映っていなかった。
 無表情とか無感動とか、そういう類のものとはまた違う何かが、その人の瞳からは感じられた。
 どうやって表現すればいいのか、自分でもよく分からない。
「(……雛)」
 幼い頃にテレビで見た、ある話を思い出していた。
 雛鳥は、生まれてから一番最初に見た者を自分の親と認識する、という話。
 生まれたばかりの雛鳥が、親鳥を見る瞳。あの人の瞳は、それに似ていると感じた。
 ぼくも、あの瞳に引き寄せられているような気がして、なんだかこの場から動くことができない。瞬きをすることも憚られるくらいだ。あの人も、その場から動かず、じっとぼくの目を見続けている。……すると、
「え……ええっ?」
 どさり、とあの人が倒れた。思わず喉から変な声が漏れてしまった。
 そういえば、あの人は顔を見る前からふらついていた。やっぱり体調が悪かったんだろう。
「ど、どうしよう? ……あの人」
 いかにも怪しい、しかも自分そっくりな見ず知らずの人。だからって、このまま家の前に放っておくわけにも行かない。
 ぼくは下に降り、あの人を家の中に運び込むことにした。






 窓から朝日が射し込み、その光が目に突き刺さって、夢の中から現実に引き戻される。
 眩しさにぎゅっと目をつむり、そこから何度か瞬きをして、ようやく意識がはっきりとしてきた。
「……あ」
 ぼくが寝ていた場所は、自分の部屋のベッドじゃなくて、リビングのテーブルの上だったことに気が付く。テーブルに突っ伏して寝ていたのがまずかったのか、手や顔に寝痕がしっかりついてしまっていた。
 昨日の夜、家の前にぼくそっくりの人がいた。どうしてそっくりなんだろうとか、何でこんな時間にうちの前にいるんだろうとか、その場から動けずにずっとそう思考を巡らせていたら、あの人が目の前で倒れてしまったんだ。――起きがけの頭が、昨日何があったのかをようやく理解していく。
 放っておくわけにはいかないから、そのまま家の中に運び込み、ソファーに寝かせて、もう何度目かわからないくらいにタオルを取り替えたけど、その人は一向に目を覚ます気配がなかった。あの人が目を覚ますのを待ち続け、結局ぼくもリビングで寝てしまって今に至るというわけだ。
「(昨日のうちに救急車を呼んで、病院に連れていってあげたほうが良かったかな……)」
 あの時は焦っていたからそんなこと思いつかなかったけど、よく考えてみれば、自分そっくりとはいえ身元の分からない人を家に運び込むより、そっちの方がよかったのかもしれない。
 ただもうこうなってしまった以上、この人が目覚めるまで待って、それから色々話を聞きたい。ちょっと衰弱しているみたいだけど、病気や怪我があるようには見えないし、それに今日は日曜日だから、学校はない。元々今日は課題に取り組もうと思っていたので、このまま家であの人の目が覚めるのを待とうと思う。そこから話を聞いて、必要があればそのまま病院に連れて行く。それでいいだろう。
 キッチンに目をやると、目を覚ましたら食べさせようと思っていたスープの鍋があった。それにもう一度火をかけ、まだ寝ているあの人の傍に立つ。
 顔色はぼくよりずっと悪いけど、顔つき自体は本当にぼくそっくりだ。本当に顔色が真っ青なので、寝ているだけでもやっぱりどこか不安な気持ちにはなる。タオルが額から落ちていたことに気付いて、その人の額に戻してあげた。
 あの人の名前は、なんて言うんだろう。顔も同じだから、名前もぼくと同じ「リンク」だったりするんだろうか?
 何かあの人の身元がわかるものがあればいいと、少しの罪悪感を抱きながら、ソファーに寝かせる前にあの人から脱がした古びたジャケットのポケットに手を突っ込んだ。
「あれ?」
 ポケットには何も入っていない。バッグは持っていなかったから、持ち物は全部ポケットの中に入っていると思っていたのに。もう片方のポケットに手を突っ込む。今度は何かが指先に当たった。
 ポケットの中からそれを引っ張り出す。出てきたのは、一枚の折れ曲がった写真だ。
「これ、は……」
 そこに写っていたのは幼い二人の子どもだった。
 多分一歳半頃の子どもだろう。一緒に手を繋いで、見てるこっちが微笑ましい気持ちになれるほど、嬉しそうに笑っていた。双子なのか、二人とも全く同じ顔をしている。
 そして何を隠そう、その子どもの顔は、幼い頃のぼくだった。
 ぼくに兄弟は居ないはずだ。双子の兄か弟が居るなんて、そんな話は聞いたことがない。……でもこの写真がある限り、この人とぼくは兄弟、或いは親類という関係になるんだと思う。
「(……うちの住所?)」
 写真の裏には、この家の住所が書かれていた。ポケットの中には他には何も入っていなかったので、この人は写真に書かれた住所を頼りに、ここに来たのだろうか。
 でも、どうしてこんなものを持っているんだろう。それに、ぼくは一人っ子として育ったんだ。自分に兄弟が居るなんて話は一度も聞いたことがない。父さんが生きていたらすぐに問い詰めていたんだろうけど、亡くなってしまった人にそんなことを聞くのは無理だ。
 ……やっぱり、あの人に聞くしかない。
 もう一度、視線をその写真に落とす。そこには幼い頃のぼくが居た。
「……!」
 凄い速さで、誰かに持っていた写真を引っ手繰られた。
 手が伸びたほうを見ると、いつの間にかあの人が目を覚ましていて、警戒しているのかぼくを強く睨んでいる。その手にはさっきぼくから引っ手繰った写真があった。
「べ、別に写真を取ろうとしていたわけじゃないんだ。……何か、きみの名前とかがわかるものがないかなって思ってさ」
「……ここは?」
「ここ? ぼくの家だよ。君が倒れたから運び込んであげたんだ。もう大丈夫? どこか変なところがあったら……」
「お前は、人間か?」
 予想だにしなかった質問に、思わずぽかん口をあけたままになる。
 普通だったらここは、ぼくの名前を聞いてくるとか、そうでなくてもぼくの質問に答えるところじゃないんだろうか。
「へ? まぁそうだけど、それが一体?」
「そうか」
 何故かそのまま悲しそうに目を伏せてしまった。……わけがわからない。
「あ、そうだ。君の名前は?」
「ダーク」
「そっか、ダークだね。……それで、なんでうちの前に?」
 ぼくの問いに、ダークは考え込む。その時に、少しだけ警戒を解いてくれたみたいだ。
「これ」
 ずい、とダークがあの写真の裏面……この家の住所が書かれている部分を、ぼくの顔の前に突きつけてくる。
「この住所はここか?」
「そうだよ、ここで合ってる。でもどうしてあんな時間に?」
「迷った」
「迷ったって……ここそんなにわかりにくかったかな?」
 このあたりは確かに何もないところだけど、特に道が入り組んでいてわかりにくいというわけじゃない。
 それにこの家も近くの大通りから入ってすぐの場所にあるから、普通にしていたら道に迷うなんてことには滅多にならないはずだ。ダークは、方向音痴なのかな。
「一人で外に出るのは初めてだった。住所の読み方は知っている。でも実際に出たらどうすればいいのかわからなくて、迷った」
「一人で外に出るのが……初めて? だって、ダークはぼくと同じくらいに見えるのに」
 同じ位というよりは、きっとぼくらは双子だろうから、同い年と思っていいんだろうけど。ただ本当に双子だとはまだわかっていないので、それは言わないことにした。
 ダークがそれに答えようと口を開いたその時に、リビングにインターホンの音が響き渡る。
 多分友人の誰かだろう。時計を見るとまだ結構早い時間なので、こんな時間に来るような友人はきっと生真面目な性格のマルスと、そんなマルスとよく一緒に居るロイだろう。
 ちょっと待っててね、とダークに言い残して、玄関のドアを開ける。やっぱりそこには私服のマルスと、そんなマルスの後ろに同じく私服のロイが居た。
「どうしたのさ、二人とも」
「君が課題に手間取っているって聞いたから、同じく課題に手間取っているロイと一緒に来たんだ。あ、何か……電話をしておいた方がよかったかな?」
 マルスがそう言って、後ろに立つロイにそっと目配せをする。ロイは少しだけ罰の悪そうな顔をした後、お土産が入っているらしいビニール袋をぼくに見せた。
 つまり、この家で勉強会をするってことなんだろう。この通りぼくは一人暮らしだから、友人達が集まる時はこの家に集まるときが多いし、テスト前には皆でよくこの家で勉強会を開く。
「別に平気だよ。助かった、ありがと」
「ならよかった。それで……他に誰か来ているの?」
「リンクの彼女……ではないですよね。男物ですし」
「なんで?」
 マルスとロイが二人して下を指差す。そこには、ダークの靴があった。昨日家に運び込む時に靴を脱がせて放っておいたままだったから、玄関に靴が二つ転がっている。
「これは、ちょっと昨日のうちに色々あったんだ。その……なんて言ったらいいんだろ」
 たとえ本当のことだとしても、昨日の夜に自分そっくりの人が家の前に立っていて、その人が目の前で倒れたから家に運び込んだ。……なんて言っても多分信じてくれないから、どうやって説明しようかと思考を巡らす。
 上手く説明できずにその場で口ごもったままでいると、ダークがまだ具合がよくないのか、ふらふらとした足取りではあるが、廊下に出てきた。
 廊下に出たダークは、リビングの奥のキッチンを指差し、
「鍋」
 そう言われたところで、やっと火にかけたままだったスープの鍋のことを思い出す。多分鍋が吹き零れているんだろう。
「あ、忘れてた。二人とも上がってていいよ。今ちょっとごたごたしてるから、少し待たせることになるけど……あれ?」
 マルスの顔が、いつの間にか真っ青になっていた。
 顔を真っ青にしながらもマルスは、ある方向をじっと見つめ続けている。――その視線の先には、ダークが立っていた。
「マルス?」
「どうしたんですか、マルス? 具合でも……」
 ぼくらの言葉に、マルスははっと我に返ってくれた。
 その後すぐに青ざめた顔のまま、ぼくに軽く頭を下げて、
「……ごめん、用事を思い出した。ロイ、今日は戻ろう」
「へ? どうしてですか?」
「いいから。……事情は後で説明する」
 その後に、マルスはロイに何か耳打ちしているようだった。マルスからそれを聞いたらしいロイの顔からも、さっと血の気が引くのが見える。
「リンクは、その人について何も覚えていないのかい?」
「ダークのこと、知ってるの?」
「……そうだね、君が覚えているわけないか。後で電話する。その時に僕が知っている限りのことを
全て話すよ」
 マルスはそう言い放つとぼくの返答を待たず、ロイの手を引きそのまま出て行ってしまった。
「え? ま……待ってよ、マルス!」
 二人を呼び止めようとしたけど、既に二人は外に出ていて、扉が閉まろうとしているところだった。急いで靴を履き外に出ると、駆け足で去っていく二人の頭が見えただけだった。
 ……何が何だか、さっぱりわからないけど、マルスがダークのことを知っているということだけはわかった。後で電話をすると言っていたから、素直にそれを待ったほうが良さそうだ。
 家の中に入ると、さっきと同じ場所にダークが立っていた。
「何だったんだ?」
「わからない……なんだったんだろ」
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