物心ついた時にはもう、父はこの家にいなかった。
 まだ幼いおれを養うために、子どものおれの世話を叔父叔母に任せ、必死に働いていた母親しか、この家にはいない。
 どうしておれには父が居ないのか不思議に思い、初めて母にそのことを訪ねたとき、母は何も言わずにおれにあの写真を渡した。そこに映っていたのは、幼いおれと、おれそっくりの誰か。
 そして写真の裏には、よくわからない数字と文字の羅列。
 その数字と文字の羅列が、ある場所の住所を示していると知ったのは、母が死んでから何年も経った後だった。
「おれは人間じゃない」
 母が亡くなってから、叔父叔母はおれに家から出ることを禁じた。
 叔父叔母が言うには、すべてはおれが人間ではなく、人の形をした化け物だったせいだからだそうだ。そのせいで父と母は別れてしまい、その後母も亡くなってしまったのだと聞いた。
 まだ五歳にも満たなかったおれにとってその言葉は、ただただその通りだと感じるほかなく、外に出られないことに特に疑問を感じることもなかった。叔父や叔母がさげすむような目で自分を見るのも、自分が人間でないのならそれも当然のことだと思った。
 母も父も叔父も叔母も人間だったが、おれだけは違うのだ。
 だがあの写真に写っていたおれそっくりの誰かは人間か、あるいはおれと同じでそうじゃないのか、一体どちらなのだろう。この部屋でずっと本を読んでいたおれは、よく写真を眺めながらそんなことを考えていた。
「人間じゃないから。外に出てはいけない。だからずっとこの部屋にいたけど、数日前に家から追い出された」
 家を追い出される数日前、叔父と叔母が何かを話していたのは知っていた。もう一人でも生きていける年だ。これ以上置いておくことはできない。なんて言葉が聞こえてきたこともよく覚えている。
 もう人間ではないおれは、ここに居ることすら出来ないのだ。叔父叔母がそう言うのだから、きっとその通りなのだろう。特に抵抗もせず言われるままに家を出たおれは、ふとあの写真のことを思い出した。
 人間ではないから、あの部屋にもう居ることはできないが、もしかするとあの写真に写っている人物も、おれと同じように人間でないのかもしれない。おれと同じだとしたら、その人のそばに居てもきっと平気なはずだ。住所の読み方なら何とか本で覚えていたおれは、その住所が指す場所を目指して歩き出した。
「お前は人間だけど、おれを迎え入れてくれた……だから、お前と一緒に居てもいいんだと思った。でもお前は、おれを連れ戻しにきた。おれが……人間じゃないからなんだろ?」
 結果から言えば、その写真の住所が示す先に居たリンクは人間だった。本人に聞いたら、そう答えたのだ。きっとおれとは違うのだろう。それに写真と同じようにおれそっくりの姿をしていたけど、その考え方も生き方も、何もかもがおれと違っていた。
 それでもこんなおれを受け入れてくれたことがただただ嬉しかった。だが、リンクと一緒には居ることはできないのだ。
「おれは……ここにはもう、居たくないんだ」



「おれは……ここにはもう、居たくないんだ」
 俯いたダークの肩が、僅かに震えていた。
 ダークに言われる前から、大体の予想は付いていた。
 とにかく物を知らないダークの言動、叔父叔母の彼に対する態度、そしてこの部屋。恐らく母が十年以上前に亡くなってから、ダークは虐待を受け続けていた。体に目立った傷がないことは知っているから、多分この場合は所謂ネグレクトというものだろう。
 だが、ぼくが思っていた以上に酷い状況だった。何年もの間ずっとダークはこの部屋から出ることなく、半ば監禁されたような状態で日々を過ごしていた。さっきの言葉も、その虐待の影響だろう。幼い頃からずっと叔父叔母からそう言い聞かされていて、ダークは未だに自分のことを血の通った人間だと思っていない。
 思えばあの日ダークが目覚めて、一番最初にぼくに聞いてきた言葉は、ぼくが人間かどうか、という問いだった。今ならそこにどんな意図がこめられていたのかも、よくわかる。
「ダーク、違うんだ」
 ここに連れてきたのは、そんな理由じゃない。そう言おうとして、手を伸ばしたその時、
「……っ!」
「ダーク!」
 獣のような唸り声をあげて、ダークがぼくの腕を振り払う。それでもなんとかダークの片腕を掴んだけど、もつれるように二人とも本の山の中に倒れ込んでしまい、ダークの体の上にぼくが馬乗りになるような形になる。埃を被っていた色々な本が、ぼくらの上に落ちていった。
 本の山の上に倒れてもダークは抵抗をやめずに、腕の中で唸り声を上げて暴れて続けている。よほどここに居るのが嫌なのだろう。その気持ちはぼくにもわからないでもない。
 ――ただ、その気持ちを知るのがあまりに遅すぎたのだ。双子の弟がここで、どんな思いで日々を過ごしてきたか、ぼくはずっと知らずに生きてきた。
 双子には、互いの痛みを同期することのできる力がある。
 なんて話を良く聞くけど、ぼくはダークの痛みに、ちっとも気付くことができなかった。彼の存在を知らなかった。知らされていなかった。……そんなことを言ってしらを切ることはできる。
 それでも十何年もの間、気付くことのできなかった罪は大きく、そして不甲斐無い気持ちになる。
「落ち着いてよダーク、違うんだ……そんなつもりじゃない」
 宥めるように声をかけても、ダークは尚抵抗し続けている。
「ダーク!」
 声を張り上げ名前を呼べば、ようやく抵抗し続けるダークの体がぴたりと止まった。
 ダークは怯えた瞳でぼくを見つめていて、ともすればまたさっきのように暴れ出してしまいそうな顔をしている。
「君を連れてきたのは、ここに連れ戻す為じゃない。君と一緒に叔父さんたちと相談して、ダークがぼくの家にずっと一緒に居てもいいよう話をつける為にここに来たんだ。……上手くいけば、ずっと一緒に居られる」
「本当、なのか」
「本当だよ、嘘じゃない。ぼくだって、一緒に居たいんだ……だって」
 こつん、とダークと額を合わせる。
「兄弟だろ?」
 いつの間にかそんな時間になっていたのか、真っ赤な夕焼けが部屋をオレンジ色に染めていた。
 夕焼けには、いい思い出なんてない。でもこれからは綺麗な夕焼けを、幼い頃からずっと居たらいいのにって願っていた弟と一緒に見ることができる。
 それはぼくにとって、願ってもない幸せだ。
「それにダークは、ちゃんとした人間だ……ただダークが人間じゃないって思いこんでいただけで、本当は普通の人間なんだよ」
「おれが?」
「そう……ぼくの、双子の弟」
「おれが……弟」
 ダークが、ぼくの頬に手を置く。手の体温と一緒に、何かがぼくに流れ込む。流れ込んできたなにかは、胸で留まり、じくじくとした痛みを持ち始める。
 同期する、痛み。
 今どれだけダークが苦しんでいるのかが、今ならわかる気がする。
 こうしてぼくに流れ込んできている痛みが、きっとそうなんだ。
「……兄、さん?」
「うん、そう……お兄ちゃん」





「これから、お前のことはどうやって呼べばいいんだ?」
「え?」
「兄さんって、呼べばいいのか?」
 部屋を出ようと扉の前に立ったところでそう呼び止められ、夕焼けに染まったダークの顔を横目で見る。
「普通の兄弟なら、そうしたほうがいいんだろうけど、双子だからなぁ……今までどおり、リンクでいいよ」
「わかった。リンク……ありがとう」
「いいよ別に、こうしていられるのは、ぼくだって嬉しいから」

「行こうか」
「……ああ」
 この扉を二人で出て、叔父叔母に話をつける。そうすれば、ダークは自由だ。ずっと一緒に居られる。
 これから何をしてあげて、何を見せてあげようか。
 そんなことを考えながら、ぼくはドアノブに手をかけた。
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。