「……今日は、昼過ぎに中庭を歩いた」
 湯気の立つカップを受け取ったダークが、徐に話し始める。
「そうしたら、マルスに会った。マルスが花壇の花を指差し、これらの花の名前を知っているかとおれに聞いた」
 夕食後にお茶を飲みながら、今日はどんなことがあったのかダークが話すのは、既にぼくらの日課になっている。
 元々この時間は、ぼくが毎日ダークに今日は何があったのか聞くようになったのが始まりだ。
「おれが知らないと答えたら、マルスがひとつひとつ花の名前を教えてくれた」
 今まで一緒に旅をしてきた時は、当然ながらいつもダークと一緒に居たのだが、この世界に来てからは二人とも別々に時間を過ごすことが増えた。
 そうなったとしても、ぼくはまぁ別に構わない。むしろ一人で本を読んだり、ゆっくりあたりを散歩したり、木陰で昼寝をしたりと、一人の時間が増えたことで今までよりリラックスできるようになった気がする。
 勿論、リラックスできているのは旅をしていた時の根なし草の生活とは違い、毎日同じ場所で生活をしている、というのもあるのだが。
 で、問題はダークだ。ぼくと違い、長らく魔物としてダークは娯楽らしい娯楽を全く知らない。
 よってここに来てから、ぼくが居ないので一人で時間を過ごせと言われても何をしていいのかわからないようで、一時期は一日中部屋の椅子に座ってぼーっとしていることがほとんどだった。
 本人はそうしていることに慣れているとは言っていたが、その姿はぼくから見ればそんなつもりなど無いのにダークを部屋に閉じ込めているようであんまりにもあんまりなので、のめりこめるとまではいかずとも一人で時間をつぶせるような娯楽を勧めてみたのだ。
 まず、本を勧めた。
 人間と生まれが違うゆえに色々なものに対する価値観が異なり、その上想像力が貧困なダークにとって本のストーリーは最早退屈やつまらないという単語を通り越し、登場人物の心情や世界観、情景の描写などなど本に書かれていることの殆どの内容が全く理解できなかったようだが、とりあえず文字を追うことには興味を持ってくれたので成功と言えるだろう。……多分。
「……どんな名前だった?」
 次に、散歩を勧めた。
 元々外の世界には(ダークにしてみれば)それなりに興味はあったようで、さらに季節の移り変わりだったり、マスターハンドが魔法で外の風景を変えたりと、同じ場所で暮らしていても日毎に変わる風景はダークの興味を引いたのか、定期的に外に出て歩くようになった。
 特に読書と違い、外に出て歩くことはすなわち、ぼく以外の誰かに出会う可能性もあるということになる。
「いろいろ教えてもらったが、忘れた。……あと、桜が咲き始めていると、言っていた」
「あぁ、あれか……確かに、もう少しだったね」
 ダークが言っているのは確かマスターハンドの世界にあると言う、不思議な花だ。
 薄桃色の小さい花が枝いっぱいに咲くもので、花自体にこれといって特別な力はないし、薬にもならない上に食べてもさしておいしくないが、咲いている時は勿論散りはじめている姿も綺麗だという、そういう意味では少し不思議で珍しい花だ。
「それ以外、は……特にない」
「……そっか」
 一人でふらふらと外を散歩するようになったダークは、その先で誰かに出会って簡単な会話をしたり、時には誰かに鍛錬をしないかと誘われたり、手伝いを頼まれたり、またある時はちょっとしたトラブルに巻き込まれたりと、ぼく以外のメンバーとも交流を図る機会も増えた。今日、マルスに会ったらしいことも、その一つだ。
 そうやって散歩を日課とするようになって、ダークはぼくが知らない間に何かしら新しい経験をすることが増えた。
 しかしダークの元々の性格上、それを自分から話すことはしない。だから、ぼくは毎日この時間に二人でお茶を飲みながら、今日一日ダークに何があったのか。何を見て、それをどう感じたのか。それを聞くようになったのだ。
 それは単純な好奇心からが半分、ダークは何か困ったことが起きてもそれが自分にとって困ったことだという自覚がないから心配なのが半分。――そんなところだ。
 今日のように、いつしかダークは、自分からその日起こったことを話すことになった。
 それはその日がとても楽しい日だったからとかじゃなくて、多分本人はその日起こったことをぼくに話すのが自分の義務だと思っているんじゃないかと推測している。よく小さな子供が親に勧められて日記を書くように、ダークもまた、ぼくにその日の出来事を話すことでその日起こったことをまとめて、整理をしている。
 ダークにこうやってその日に起きたことを話すのを強制した記憶はない。それどころか何も言いたくないなら話さなくていいとは言っている。それでもダークがその日起こったことを話さなかった日は一度もない辺り、やっぱりこれが自分の義務だと、すべきことだと思っているのかもしれない。そういう意味でなら、これは会話と言うよりはむしろ報告に近いのかもしれない。
「……それと、最後にマルスがこう言っていた」
「なんて言ってた?」
「おれがこうして外を歩くことで、マルスたちと交流を持ち始めてくれたことが嬉しい、と言っていた」
 多分、ここは喜ぶ場面だ。
 もっと色んなものを見て欲しい、ぼく以外の色んな人とも関わりを持ってほしい、かつての自分はそう思って外を歩くことを勧めたのだから、それが叶って、喜んで、ダークにはよかったねって声をかける。そんな場面。
「……うん、そう」
 しかし、そういう気分にはなれず。何でもないふりをして適当に相槌を打つ。
 だが何でもない一言になるはずだったその言葉には、ぼくのどす黒い感情が上乗せされ、ダークもおかしいと訝しむくらいの声色へと変わってしまったようだ。
「?」
 不思議そうにダークが首を傾げるが、何でもないよと言って、ダークから顔が見えないように俯いて、カップに口をつけるふりをする。
 それでも、ダークを誤魔化すことはできなかったようで、
「どうかしたのか」
「……どうもしない」
「普段のお前はそんな顔などしない。お前だけじゃない。おれが見てきた人間は、誰も好き好んでそんな顔をしなかった」
 ダークに今の自分の顔がどう見えているのかはわからない。でも、決して良いものに見えているわけではないことは確かだ。
 人でない分人間の常識に疎いダークは、出来るだけ人に失礼をしないように、よく人の顔を見るようにしているらしい。
 そうしていれば今相手が何を考えているのか、どのような感情を抱いているのかがわかる。それが適切に理解出来ていれば、自分が礼を欠いた言動をすることも多少は減る。
 実際に、その通りだと思う。そして普段ぼくらが無意識の内にやっていることをダークは意識してやっている分、人の些細な変化に気付きやすい。表情の変化は勿論、相手の体調の変化のことも。
「そんな顔をするのは、何かがあった時だけだ。何があった」
 当然ながら他人に読まれなくない感情も、僅かに顔に出てしまえばダークはそれに気付いてくる。
 そういった意味では、ダーク相手に隠しごとはし辛い。ただ、気付いたとしてもそれの意味するところがダークにはわからないというのが不幸中の幸いか。
「違う、本当にどうもしないんだ。……ただ、ちょっと疲れているだけだと思う。もう寝るから、平気だよ」
 ほとんど中身の減っていないカップをテーブルに置いて、無理矢理会話を終わらせようと席を立ち、ダークに背を向ける。
「待て」
 腕を掴まれ、半ば強引にダークの方を向かされる。そして何を思ったのか、いやダークが何を考えているのかわからないのはいつものことだけれど、服の上からぺたぺたと体を触ってくる。
「な、何してるの? ダーク」
「どこだ。どこに傷が出来た」
「……は?」
「今のお前は、傷ついた人間と同じ顔をしている。どこが痛む」
「そんな顔、してたの?」
 自分が言いたいことを的確に表現する言葉を探しているのか、少しの間ダークが黙り込む。
「……痛みに耐えている時の顔だ。そんなに酷くはない傷か、あるいはおれにはよくわからなかったが、マルスが以前言っていた目に見えない傷が、お前にあるのかもしれない」
「目に見えない、傷」
 多分それだ。今ぼくが苦しいのは、そのせいだ。
 言っていることはちょっと抽象的だけど、中々的を射ているので、実にマルスらしいなと思った。
「目に見えない傷は、ここが痛むとも言っていた。……そうなのか」
 ぼくの左胸に、ダークがその手を置く。
 ダークは何も悪くないのに、必死に、そしてダークなりにぼくに歩み寄ろうしているのがよくわかって、手を置かれた部分が僅かに痛んだ。
「……そうだよ」
 左胸に置かれたダークの手に、自分の手を重ねる。
「そこが、痛いんだ」
 そしてよせばいいのに、その問いに正直に答えてしまう。
「いつ出来た傷だ」
「少し、前から」
「なぜ痛む。おれが原因か」
「どうして」
「最近のお前は、おれがその日あったことを話す時によく、そんな顔をする」
 やっぱり、ダークには何もかも読まれていたんだ。詳しいことはわからなくても、ここ最近のぼくがおかしいということを、ダークははっきりとわかっていた。
「教えてくれ。おれが原因なら直すつもりだ。おれは鈍い上に、人間の常識をろくに知らない。だから、他人に言われなければ、おれはどこをどう直せばいいのかわからない」
「……ダークは悪くないよ。悪いのは、直さないといけないのは……こっちの方だ」
 そうだ、直さないといけないのは、こっちの方。
 ぼくは多分、嫉妬してるんだ。ダークが部屋を出た先で出会った、皆に。
 ダークに色んなものを知ってほしいと願っていたのはぼく自身だ。だから外を歩くことを勧めた。他の人と関わりを持つことを勧めた。そして自分から部屋を出て、マルスと一緒に居たダークは、かつてぼくが望んだ生き方をしている。
 いつからだろうか。自分がそれを素直に喜べなくなってしまったのは。
 気が付いた時ぼくは、ダークの変化をちゃんと喜ぶことが出来なくなっていた。
 勿論、以前のように戻ってほしいだなんて思っていない。ぼくは今だってダークに色んなものを知ってほしいって思っている。
 それでもダークが一つ新しいものを知っていくたびに、ダークの関心が自分から遠ざかっているような気がしてならないのだ。
「……っ」
 矢も楯もたまらず、ダークに抱き着く。いきなりのことだったのでダークが僅かに後ろによろめいたが、何も言わずにされるがままになっている。でも今は、そのほうがぼくにとってはありがたかった。
 いつもぼくがダークのことを何かと気にかけているように、ダークはいつでもぼくのことを一番気にかけていてくれる。
 ぼくが一番ダークのことを好きなように、ダークはぼくのことを一番好きでいてくれる。
 それは今でもきっと変わらないだろうし、実際、ダークに聞いたらそうだと答えてくれるだろう。
 自分が一番愛されているって自信はあるのに、今日みたいにその日の出来事を思い出しながらぼくに話しているダークを見ていると、こっちを見ているのに見ていないようで、そしてダークがぼく以外の人を見ていたという事実に、狂いそうなほど嫉妬してしまいそうになる。
 今日だってそうだ。ダークと一緒に話していたマルスに、酷く嫉妬している。花の名前なんか教えたって、どうってことないはずなのに。
「ダークは、ぼくが好き?」
「? ……あぁ」
「愛してる?」
「あぁ」
 想像していた通りの言葉に安心して、それと同時に、自分の愚かさが酷く嫌になって、思わずダークのその背中にがり、と爪を立ててしまう。それでも、ダークは何も言わない。
「あのね、苦しいんだ」
「何故だ」
「ダークが好きだから」
 普通だったら、自分が一番愛されているって思えるなら、心に余裕が出来るはずなのに、ぼくの場合どうしてかそうはなれない。
 自分が一番愛されている。だからこそ、いつでも自分の方を見てくれないと気が済まない。
 多分、何もかもが一番じゃないと嫌なんだ。
 花の名前を教えるのも、人らしい感情を教えてあげるのも、全部。今のぼくは何もかもがダークにとっての一番でありたい。それくらいダークが好きだ。
「好きだし、大事にしたい。もっと色んなことを知ってほしいし、ちゃんと笑ったり怒ったりできるようになってほしい。ダークがそうなる為には多分、他の人との関わりも必要になる。……でも、それが辛い」
「お前の望みが叶うことが、何故辛く感じる」
「嫉妬だよ。ダークが一番好きだから、そう望んでいても、ダークが自分以外の人と話しているのが辛いんだ。大好きだから、辛いんだ」
「……よくわからない」
「わかんなくていいよ。こんなのは、知らない方がいい」
 我ながら、とても馬鹿馬鹿しいと思った。
 同時に自分自身をみじめだ、とも思った。
「それは、辛いのか」
「うん」
「苦しいのか」
「……うん」
「それが、人の痛みか」
 何も答えないかわりに、縋るようにダークに抱き着く。
 ダークの肩にぎゅっと自分の顔を押し付けると、後頭部にダークの手が置かれる。そのまましばらくそうしていると、おもむろに口を開いたらしいダークの息が、耳にかかる。
「……考えていた。おれに何ができるか」
「……?」
「お前は、おれにこのまま色んな奴らとかかわりを持ってほしいと思っている。だがその通りにすれば、お前には見えない傷がつき続け、そんな顔をする。そしてお前に見えない傷がつかないようにすれば、お前はさらに傷つく。お前の相反する感情に、おれは一体何ができるか、考えていた」
「考えて、それで……どうしようって思ったの?」
 後頭部に置かれていたダークの手が背中に回り、その手に力が籠る。
 ダークは力加減があまりよくわかっていないのか、包み込むようにとはいかず、ぎゅっと結構強めに抱き締められる。
 でも、そっちの方がかえって安心できるような気もした。
「言葉そのものは難しくない。ただ、自分が思っていることを言葉で的確に表現することはいつも難しい。多分今のおれには、今のお前にもっともふさわしい言葉をかけることは出来ない。だから、言葉じゃない方法で何が出来ることはないかと考えた」
「それで、こうしたってこと? ……なんで?」
「お前が教えてくれたことだから」
 瞳と、胸の奥が熱くなるのを感じた。
 その熱に突き動かされるように、自然とダークの背中に回した手にも力が籠る。
「抱き締められればと安心すると、お前はおれに教えてくれた。だから、教えられたようにおれもまたそうする。……間違って、いたか?」
「……ううん、間違ってない。大丈夫だよ」
 それにもし間違っていたとしても、ダークがぼくを想ってしてくれたことなら、きっと嬉しいと、ありがとうと思えるに違いない。
 ――あたたかいと感じた。
 いつも、ダークの体は冷たい。人間であるぼくらと体のつくりが異なるせいだ。
 今だってそれは変わっていない。そのはずなのに、ダークの体をとてもあたたかいと感じる。どうしてこんなにあたたかく感じるのだろう。自分でも不思議なくらいだ。
 それに、こうしてぎゅっと抱きしめられていると、大丈夫だよ。心配しなくていいよと、言われているような気がしてくる。
 多分、ダークは実際にそう思っているんだ。でも上手く言葉にできなかったから、こうして抱き締めているだけで、そしてそれは、ちゃんとぼくに伝わっている。
 大丈夫だよ。全部、伝わってるから。
 そう口にしようと思ったけれど、ダークがそれを言葉にすることが無かったように、ぼくもまたあえてそれを言葉にしないまま、背中に回していた片方の手をダークの頭の後ろに置いた。気持ちを、込めて。
「(……伝わるかな、伝わればいいな。……ううん)」
 きっと、伝わってるだろうな。
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