「おれは魔物だ」
「知ってる」
「例えどれだけ人間と暮らしても、自我を持っていても、……もし生まれたときから人間として育てられていたとしても、これだけは覆らない」
「うん」
「人間にもそう刷り込まれているように、魔物にだって本能が存在する。……もちろん、おれも」
「わかってる」
「その本能が叫んでる。心の中で暴れてる。いくら抑えつけても、おさまらない」
「……」
「『勇者を許すな』『勇者は敵だ』そして……」



「『勇者を殺せ』と」




 大きな音を立てて鈍色の空から灰色の雨が降り注ぐ。さっきまではあんなにも晴れていたはずだったのに、今ではこうして、空から何もかもを覆い隠して暗い気持ちにさせてしまいそうな雨が降っている。
 ……覆い隠してしまいそうだとしても、結局それは覆い隠して「しまいそう」なだけであって、実際に自分たちを覆い隠してしまうことはない。何故、どうして、空はそこまで自分たちに酷い仕打ちをするのか。
 そんな中、ぱさ。と小さな音を立てて、さっきまで身に纏っていた服が床に落ちた。
「……」
 露わになった自分の素肌に、そっと目を伏せる。
 傷は元から沢山あった。旅をしている時に出来たものもあれば、ここに来てから出来るようになった傷もある。……しかしそれらよりも、三日月型の小さな傷が圧倒的に多かった。
 その傷達は作られたばかりで瘡蓋すら出来ていないものもあれば、傷から透明な液を出して膿んでいるものもあれば、掻き過ぎて痕が残り、ぷっくりと腫れてしまっているものもあった。
「(かゆい)」
 腕に出来た傷を掻き毟る。出来かかった三日月形の瘡蓋は、小さな痛みと共にあっさりと剥がれ、また血と膿を傷口から流しだす。
 それだけでは飽き足らずに、腕だけではなく全身の傷を掻き毟る。
「……かゆい」
 鏡に映った自分の醜い身体を見つめながら、傷口を掻きつづけた。傷だらけの肌は真っ赤になり至るところから血と膿を流し、それらが素肌を伝い落ちる。
 頭の片隅で鏡に映った自分の姿と、鏡に映った自分だと言われる彼の姿を比べた。
 ……体つきも顔つきもそっくりだ。そんなの如何見ても分かる。でも髪の色だって目の色だってその同じ顔に浮かべる表情だって頭の中で考えている事だって違う。
 この心だって違うこの命だって違うこの傷だって違うし、この心もこの命もこの傷も自分ひとりだけのもので彼とは分かち合うことはできない。
悲しみも死も生も痛みも彼に本当のことは分かってもらえないし、彼の悲しみも死も生も痛みも何も分からない。自分の頬に触れたところで彼もまた同じ動きをするわけじゃない。逆もまた同じだ。
「じゃあ、彼は一体なんなんだ……」
 そう、鏡に映った本当の自分に問いかけてみる。こちらの鏡に映った自分は酷く自分に忠実で、自分が動けば鏡合せに同じ動きをとるし、自分が笑えば同じように笑った。泣けば、また同じように泣いた。
 ……ならこの姿は一体誰なのか、彼は一体なんなのか。本当に自分は彼を映す鏡なのか。
「おれは……お前の影だ」
 後ろからそう聞こえて、そっと抱き締められた。彼はそのまま自分の肩にある傷口をそっと舐め、流れる血と膿が彼の衣服にこびりついた。
「ダーク……」
「おれはお前だ。おれは鏡に映ったお前だ。おれは……お前の影だ」
 彼の手が自分の身体に爪を立ててくる。長い爪が肌に食い込んで、鮮血が流れた。
 彼はいつもそう言う。けれど彼は今爪が食い込む痛みも分からないし、逆に自分は彼が今どんな気持ちで自分の身体に爪を立ててくるのか、分からない。
 あなたが分からない。あなたが見えない。その姿が霞んでしまったのか、或いは、この目でその姿を見ることを、頭のどこかで拒んでいるのか。
「でも、影なのに、鏡に映ったお前なのに……殺したくなる。お前をこの手で引き裂いて、殺せって本能が、叫んでる。お前が死んだら、おれは生きられないのに、それでも……殺したくなる」
 自分の身体に爪を立てていた彼の手が、どんどん上へ上へと高くなり、ついに彼は自分の首筋に爪を立てる。
 彼は自分の影であることに、鏡に映った自分の姿であることに縋りついている。まるで、そうでなければ自分たちという関係は成り立たないというかのように。
 けれど、自分だって同じだ。彼がそういう存在であることに縋りついているという点では、彼と何も変わらない。だから鏡を見るたび、彼の存在を疑い、崩れ落ちてしまいそうな関係に怯える。
 本当は成り立つのだ。仲間でも好敵手でも兄弟のようなものでも自分たちの関係は保っていける。それなのに、そしてそれ以外でも成り立つと分かっているのにそう思ってしまうのは、自分たちがあまりにそういった関係に慣れ、そしてそれにすがり付いてしまったからだろう。
「(……いっそ、そのまま)」
 その手でこの身体を引き裂いてくれたら、彼も自分もどれだけ楽になれるだろう。

 そう思っても、自分の影であるはずの彼には何故か伝わらなかった。
 ……伝わらないから。伝わらないから、今日もまたこうして、自分は傷を掻き毟って、彼は自分の身体に傷を作る。



 結局、どう足掻いてもふたつはひとつになれないらしい。
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