散歩がしたい、と言いだしたのは彼の方からだった。
 普段散歩に誘うのは彼ではなく僕の方なので、珍しいとちょっと驚いてしまったのは秘密だ。
 別に彼は出不精なわけではない。ただ、冷たそうな印象を他人に与えるわりには、心の奥底では強くなりたいという渇望があるぶん、彼は暢気に散歩をするくらいなら剣の練習をしたいというような人間だ。だから、僕が散歩に誘ったときは渋々ついてきてくれるが、自分から誘うことはまずない。
 僕も特に断る理由もないので、ついていくことにした。午前はチーム戦の予定があったのだが、昼食を取ってからは暇だったのだ。
 僕だけでなく彼も同じだったので、二人とも部屋でずっとごろごろとしていた。何もない時僕は大抵二週間に一度位のペースで定期的に国から送られてくる書類を片付けているのだが、生憎書類は昨日時間が余っていたので、少し睡眠時間を削りはしたが昨日のうちに全て片付けてしまっていた。
 次に書類が送られてくるのは多分三日後あたりなので、それまで待たなくてはいけない。そういうことを彼の前で言うと、書類なんて面倒くさいものは来なければいいじゃないか、と言われるのだが。
 まあ面倒というのは否定しない。何をするにしても僕が直々に羽ペンで書いたサインが必要だなんて、国とはなんて面倒なものなんだろうとは思う。だが、この書類が僕の国をより大きく発展させるために必要なのだ。国に命を捧げている王族にとって、公務を蔑ろには出来ない。
 そう言い返しても、面倒なものは面倒だろうと言われてしまうのだが。
 書類も片付けてしまっていて本当にすることのない僕は、椅子に座って本を読んでいた。そして、喉が少し渇いて、紅茶でも入れようかと思ったときに、散歩に誘われたのだ。
 そして、特に断る理由もなく彼についていった僕は今、寮から少し歩いたところにある、小さな丘の上にいる。
 小さいながらもここに立てば辺りが一望できる。一望できるといっても北の方に森が見えるくらいで、辺り一帯は草原しかないのだけれど。ここは以前、僕が彼を散歩に連れていった場所だ。確か連れていったのは二週間ほど前だったか、もしかして気に入ったのだろうか。
 彼は何も話さず草原の上に寝転がり、じっと向こうを見つめていた。同じ方向を僕も見ているけれど、その先には何もない。ただ一面緑が広がっているだけだ。
 何もない場所ではあるのだけれど、優しく僕らの頬を撫ぜる涼しい風や、やわらかい太陽の光が心地よい。僕もこの場所は気に入っているのだ。ここは昔の同居人と寮の外を一緒に散歩していて、見つけた場所なのだ。
「どうしてさ、君はここに来ようと思ったの?」
 そう彼に問いかけてみるけれど、反応はない。どうしたのだろうか。ただ風がさらさらと彼と僕の青い髪や頬を撫ぜているだけだ。僕は彼の後ろに立っているためにどんな表情をしているのかは見えないので、もしかしたら……
「アイク?」
 寝ているのだろうか。そう思ったのでぐるりとまわって彼の前に立つ。
 彼の目は閉じていて、開く気配がない。耳を澄ますとすぅ、すぅ、という寝息が聞こえ、その寝息と一緒に胸が僅かに上下している。――ああ、やっぱり寝ているようだ。僕を連れてきたのに、僕を放っておいて一人寝てしまうなんて、酷い人だ。まあ別にいいけれど。
 彼の頭のすぐ近くに腰を落とした。彼の寝顔をじっと見つめていると、木の葉が一枚飛んできて、ぱさりと彼の青い髪にひっつく。僕は寝ている彼を起こさないようにそっと手を伸ばして、青い髪についた木の葉を払ってあげる。
 それにしたってとても気持ちよさそうに、よく眠っている。もしかして寝るためにここに来たのだろうか。いや、でもそれなら僕を連れてきたりはしないだろう。場所はもう分かっているのだし、ここで寝たいのなら一人で来るはずだ。じゃあ、どうして僕を連れてきたのだろう。
 しかし当の本人はこうして夢の中なので、聞いて確かめることは出来ない。起こせばいいのかもしれない。もしかしたら他に目的があってここに来たけれど、眠ってしまったのかもしれないのだし。
 でも、どうやって起こせばいいのだろう。普通に体を揺らせばいいのだろうかと思って腕を出したが、それで本当に起きるだろうかと迷ってしまい、彼の体の上で手が止まった。
「(え、ええと……えい)」
 迷った末に僕の手は、何故か彼の鼻をつまんだ。鼻で呼吸をしていたので当然彼の呼吸が止まる。
 鼻をつまんで数秒後に彼が身動ぎ、僕が座っているほうと反対側の腕がいきなり動いて、その腕が僕の背中を強く押して、背中を押された僕はそのまま彼の胸の上に倒れこんでしまった。頭の上から彼の声が聞こえる。
「何してるんだ?」
「あ、あの……起きてた?」
「ついさっき起きた。あんたが俺の髪を触ったときくらいに」
 僕が彼の髪に触ったときと言うと、彼の髪についた木の葉を払ったときだろう。起こさないようにはしていたけれど、起こしていたとは。彼も彼で寝たふりなんかしないで、ちゃんと起きてくれればよかったのに。
「それは君の髪についた木の葉を払おうとして……」
「じゃあなんで俺の鼻をつまんだんだ?」
「君を起こそうかなって思ってさ」
「別に鼻をつまんで起こさなくてもいいだろ」
「まぁ確かにそうだけど、まさかもう起きてるとは思っていなくて」
 背中を押されて彼の上に倒れこんでしまったので、これではなんだか僕が彼に抱かれているようで恥ずかしい。しかし彼は僕の背中の上に腕を置いたままだ。しかし彼は腕にちゃっかりと力を入れているので、腕の中から逃げ出せない。
「その、ええと……離して欲しいんだけどな?」
「どうしてだ。あんたも寝ればいい」
「寝るだなんてそんな……誰もいないっていってもここは外なんだし」
「俺達以外誰もいないだろう」
「それは、そうだけど」
 でも、起こしてよ。と彼の腕の中で必死に抗議をする。これじゃあ恥ずかしいし、ましてここで寝るなんてとてもじゃないけれどできそうにない。彼の胸に押し付けられたままだった顔を上げると、僕の背に回されていないほうの手が僕の右頬に置かれ、目元をなぞられた。
「くまが」
「え?」
「くまが出来ているぞ」
 そう言って、彼のごつごつした指が僕の目の下をなぞる。くまなんて出来ていただろうか。
 ここ最近そう言われるほど寝不足だった覚えはないし、昔の同居人もそうではあったのだけれど、彼はちゃんとした睡眠や食事を取らないと不健康だとか体を壊すとかなんとかとにかくうるさい人だから、ちゃんと毎日それなりに寝ている。
 ただ、ちょっと色々書類を片付ける為に昨日は無理をしたくらいだ。元々僕の睡眠時間は彼や他の人よりもちょっと少なめなほうだとは思うけれど、自分にとってはそれくらい寝られることができれば十分なわけだし、別にそういうことを言われるくらい自分の睡眠時間は少ないわけじゃない。
 どこに出来ているの。と僕が聞くと、鏡なんて持っていないから今の僕に確かめようがないのに、彼は丁寧にここだ。と言って、親指で涙をぬぐうみたいに僕の目の下を触ってくれる。
「寝不足なのか」
「そんなわけないよ。毎日寝ている。くまは多分昨日、ちょっと無理をしただけだ」
「それを寝不足って言うんだ。寝ろ」
 有無を言わさず僕の頭を、彼の胸の上に押し付けられた。もがいた末に顔を上げるとまた顔を胸の上に押し付けられる。それを数回繰り返した上で彼がなんとか諦めて僕の話を聞いてくれた。
「待ってよ。昨日ちょっと睡眠時間を削っただけだ。今だって眠くないし、別に今わざわざ寝る必要だってない。大丈夫だよ」
「でもくまができているってことは、寝不足ってことなんだろう?」
「確かにそうだけど……でも、アイクは気にしなくていい」
「駄目だ、寝ろ。あんたが貧血を起こして倒れでもしたらどうするんだ」
「そんな倒れるだなんて大げさな……」
「よく無理をするあんたならやりかねない。だから言っている。その為にあんたをここに連れてきた」
 そうきっぱりと言い張られた。あんまりにもそうきっぱり言われるものだから、なんだか僕が悪いことをしているみたいだ。いや、彼にとっては十分悪いことなんだろうな。本当になんでもないことなのに。
 ばつが悪くなってしまったから、さっきあれだけ腕の中でもがいていたのに、顔を隠す為に彼の胸の上に顔をうずめる。
「あんたはずるい人だな。恨まれてるかもしれないぞ」
 頭の上から声がしたので顔を上げる。すると、武骨な手で僕の髪を梳かれて、
「それだけあんたは綺麗な顔をしているのに、そんな下らない無理をしてくまを作るなんて、もったいない。あんたの綺麗な顔に嫉妬している奴だっているだろう。だから、ずるいって言っている」
 そんなことを言われるだなんて思っていなかった。彼は自分や他人の身なりにはあんまり関心のない人だから、そういう、綺麗な顔がもったいないなんてことはまず口にしない。
 ――ただ、ただ僕は知っている。彼は時たま僕に向かって、さも当たり前のようにさらりと口にするのだ。「綺麗だ」と。それと同時に、彼は嘘やおべんちゃらを嫌う人だから、その言葉が本当だということも、僕は知っている。
 別に綺麗な顔だなんて彼に言われるのは初めてのことじゃない。勿論自分じゃそんな自覚なんてないのだけれど。ただその、そう言われるのは慣れないのだ。
 別に小さい頃から綺麗な顔だとはよく言われた。だからそういうことをお世辞でもそうでなくても、笑って受け流すことは出来るはずではあった。でも彼が言うときだけは違う。他の人達にはそうしたように、ありがとうとでも言って笑って受け流せばいい。でも、彼の時だけはそれが出来ない。頬の筋肉が上手く動かなくていつもみたいに笑うことが出来ないのだ。いつもその代わりに頬が赤くなって、なんだか体がむず痒くなる。
 今だって、僕は顔を真っ赤にしている。どうして彼に褒められることだけは、いつまでたっても慣れないのだろう。
「わかったならあんたは寝ろ。俺が起きていてやるから」
 そう言ってまた彼が僕の頭を自分の胸の上に押し付ける。今度は僕も抵抗もしなかったし、何も言わなかった。多分、恥ずかしくて何も出来なかったというのが正しいのだろうけれど。
「寝るから……」
「なんだ?」
「寝るから、起きていてくれよ」
「……ああ。わかってる」
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。