徹夜で自分がまとめたテスト用ノートとにらめっこを続け、リンクは覚えたくも無い単語を頭の中に刻みこんだ。
 日常生活で明らかに必要の無い化学や数学の知識なんかをどうして覚えなければいけないのか、という考えは学校生活の中で誰もが通った道だろう。現に自分は悪魔召喚の呪文のように朝までに覚えなければならない単語を唱えながらこのようなことを考えている。いっそこれで悪魔でも呼んでテストをめちゃくちゃにでもしてくれないだろうか。無理だろうが。
 何故覚えなければいけないのか、答えは簡単だ。覚えておかないとテストの時に困るからだ。
 どうせテストが終わればすぐに頭から抜け落ちてしまうから、日常生活で活用できる機会などまずないと思ったほうがいい。だったらテストのためだけと割り切ってしまえばそれなりに楽にはなれるはずだろう。
 たった60分のテストのためだけに無理矢理頭に叩き込むのもなんだか腑に落ちないような気もしたが、そこまで考えて勉強をやめ、明日のテストで泣く羽目になるのだけはごめんだ。
 眠気覚ましに机の横にある冷めたコーヒーに手を伸ばす。冷め切っている上に砂糖を全く入れていないので、かなりまずい。その苦さと不味さに思いっきり顔を顰めてどうにかコーヒーを飲み干した。
 あと一時間ほどでノートを全て暗記して少し眠ろう。学校も早めに行って着いたら勉強をするのだ。これでどうにかなるだろう。そういえば英語のノートをまだ提出していない。写していない部分があるから出せないのだが、それもやはりどうにかなるだろう。
 コーヒーの入っていたマグカップの底をじっと眺める。何でもいいから動いていないと睡魔が襲い掛かってくるので、すぐに手を動かそうとノートと暗記用の赤シートを手に取った。
 ついさっきコーヒーを飲んだはずなのに、とてつもなく眠い。
 今この状態でも目を閉じてしまえばそのまま眠ってしまいそうな気がして、慌てて自分の頬を軽く叩く。このまま眠ってしまおうかと一瞬考えたが、すぐにその考えを否定した。いくら眠くても流石にたった数時間の睡眠のためにテストを捨てるような真似はしたくない。
 もう一杯コーヒーを飲もうと、リンクは眠気のせいで重たい腰を上げる。
 欠伸を噛み殺しながら暗い廊下を歩く。こんこん。という音が廊下に響いた。
「……?」
 首をかしげて、音のするほうにぼやけた意識を集める。――もう一度同じ音がした。どうやら玄関の方から音がしてくるようだった。階段を駆け下りて、扉を開ける。
「マルス……!」
「やぁ」
 扉の向こうに少しだけばつが悪そうな顔を浮べているマルスが立っていた。その後ろでは相変わらず星が瞬いている。返事をするより先にリンクはポケットから携帯を取り出し、現在時刻を確認した。現在時刻は午前3時28分。つまり今は深夜。昔の言葉だと丑三つ時。そんな時間に何故マルスは他人の家の玄関に立っているのだろう。
 さっきの音は家族を起こさないためにチャイムではなくノックをしていたのだろう。それにしても、どうしてこんな時間に? 学校に行けば嫌でも会えるというのに。
 リンクが唖然とした顔でその場に立ち尽くしていると、マルスは少し困ったように笑って、
「少し……散歩でもしない?」



「なんでこんな時間に来たの? ぼくが起きていなかったらどうしてたのさ」
 あれからマルスの誘いを受けて、寝間着から着替えてまだまだ暗い道路を歩く。数週間前までは桜が綺麗に咲き誇っていたというのに、今では全て散ってしまい、地面に落ちた花びらが茶色くなっても尚、風に煽られている。
 少し前まで日中もコートがないとまともに外を歩けないほど寒かったのに、もう随分と暖かくなって、まだ日が昇っていない今でも涼しいくらいだ。眠気覚ましに歩くのも悪くないなと。リンクは頭の片隅でそんなことを考えた。
 マルスは少し考え込んだ後、小さく笑って。
「もう少し粘ってから、そのまま帰るつもりだったよ」
「……そもそもどうして僕の家に来ようと思ったわけ?」
「なんとなく、会いたくなった」
 その言い方だとなんだか自分たちが恋人同士みたいだった。そう思うと気色悪くて、ちょっとだけ寒気がする。
 リンクはマルスから目を逸らし、寒気対策にパーカーのチャックを閉める。一応マルスからそんなつもりじゃないという弁解が入ったが、それでもやはり気持ち悪いものは気持ち悪い。
「いいね。テスト当日なのに生徒会長様は余裕綽々で」
 気晴らしにと思って勉強道具は全て置いて来たので、今日はもう眠れないだろう。勿論普通の意味でだが。そう思うと自分を散歩に誘ったマルスが恨めしかった。
「じゃあ、僕が何か問題でも出そうか? 今日は化学と数学と英語だったね」
「……いや、いいや。これ以上覚えたら頭が混乱する」
 嫌味が通じないのが癪だったが、もうなにも覚えたくは無いので、マルスの申し出は断った。
 どこへ行くのかと聞いたところ、近くの公園までと返ってきた。東の空がほんの少しだけ明るくなってきた。もうすぐ日の出だろうか。
 時々横の車道を通り過ぎて行く車の音以外何も聞こえない空間の中で、二人は黙って歩き続ける。
 枯葉の変わりに枯れた花びらが風に踊る公園に着いて、二人でその辺のベンチに座る。
「ジュースでもおごるよ。何がいい?」
 確かにコーヒーを飲もうとしたところで誘われたので、少し喉が渇いていた。別に嫌いな飲み物はないが、今カフェインだけは絶対に飲みたくなかった。少し考えた後、
「コーラ以外の炭酸系かな……サイダーとかがいいや」
「わかった。買って来るよ」
 ポケットから財布を取り出して、マルスは近くの自動販売機へと走っていった。一人残されたリンクは、辺りを見回した。
 目の前に狂い咲きの桜が見える。緑一色の桜の木の中で、その木だけが花びらを散らせていた。リンクは、じっと狂い咲きの桜を眺める。丁度その近くに自動販売機があって、マルスが桜の花びらを浴びながら飲み物を取り出していた。
 つくづく不思議な人だ。とリンクは思う。こんな時間に散歩に行こうと言い出すなんて。そもそも誘ったのはどうして自分なのだろう。他の人でも良かったはずなのに。
「はい」
「……ありがとう」
 差し出されたサイダーを受け取る。缶を開けて口をつける。甘くて冷たくておいしい。
 一方マルスは隣に座ってコーヒーを飲んでいた。それを見て先程飲み干したまずい冷め切ったコーヒーの味を思い出し、少しげんなりとなる。
「綺麗な桜だなぁ。狂い咲きの桜なんてここにあったんだね」
 桜の木をじっと眺めて、うっとりとした表情でマルスが呟いた。
「……ぼくも知らなかった。ここでお花見なら何回か来たこともあるんだけど」
「そっか、リンクの家はここから近いからね」
「そういうマルスの家はここから遠いじゃないか。どうしてぼくの家に来たのさ」
「だから、何となく君に会いたくなった。だから君の家に行った。迷惑……だよね」
 だからそんな恋人同士みたいな言い方をしないでくれ。と心の中で叫ぶ。リンクは大きくため息を吐いて、缶に口をつける。
「リンク」
「……ん」
 マルスのいる方向を向く。唇に柔らかいものが触れた。――思考がついていかず、今の自分の状況下を冷静に考える。マルスの顔がすぐ近くにあって、唇にはやわらかいものが触れている。だから動けない。まて、どうして動けないのだろう。もう一度考えてみる。
「(つまり、今……)」
 自分はマルスに、口付けをされている?
 確かになんだか柔らかいものが当たっている。マルスの顔が本当にすぐ近くにある。冷静になって考えるとやっぱり、そのようだった。
 ゆっくりと唇を離される。さっきの発言といい、やはり彼にはその気があるのか。唖然とした頭でそんなことを考えていると。マルスが苦笑いを浮かべて、ごめんね。と謝ってきた。
 いや謝る前にもっと、なんというか別の問題があるのではないのだろうか。それ以前にこれは謝って済む問題なのだろうか? いや決して自分が怒っているというわけではないのだが。
「……なんで?」
 とりあえず真っ先に出た言葉が、こんな言葉だった。マルスはやっぱり困ったように笑って、
「そう……したかったから」
「……そっちの気があるの?」
「あるかもしれない」
 学校の生徒会長がそれでは色々まずいのではないのだろうか。そもそもどうして相手は自分なのだろう。
 そんな考えをよそに、マルスはベンチから立って、リンクに背を向ける。暫くマルスはそのままでいたが、鼻を啜る音が聞こえた。なんだか目を掻いているようにも見えなくもない。
 花粉症だろうか。いや、もう花粉症の季節は過ぎたし、マルスは花粉症にならないと言っていたはずだ。それなら、
「泣いているの?」
 マルスは振り返り、にっこりと笑う。東の方から射して来た光、たしか、こういう朝焼けの光を「暁光」と言ったか。
 その暁光をその髪に受けて、狂い咲きの桜をバックに立つマルスは、唯でさえ綺麗な顔がもっと綺麗になって、よりマルスを幻想的に見せた。
 同じ男なのに、さっき自分に口付けをしてきた人なのに、何故かうっとりとしてしまう。
「……花粉症だよ」
 嘘だ。そんなはずはない。今マルスは泣いているのだ。花粉症になんてならないって言っていたくせに見え見えの嘘をつくのか。

「嘘だ」
 マルスはまた自分に背を向けて、ぐす。と鼻を啜って、
「……そうかもね」
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