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「リンク君、もう遅いよ……暗くなる前に早く帰ったほうがいい」
 教室に一人佇むリンク君に、後ろからそっと声をかける。
 すると彼はゆっくりとこっちを向いて、夕日をバックに微笑んでくる。
「先生こそ、そんなこと言わないでよ。それじゃこっちが小学生みたいだろ」
 そうやって全身にオレンジ色の光を受けおかしそうに笑う彼は、なんだ妙に大人っぽく見えてしまう。
 一応、立場上は彼はここの高校の生徒、僕は新任の教師。つまり僕達は教師と生徒という身分であるはずなのに、こんなにも彼が大人っぽく見えてしまう。
 それは裏を返せば僕がまだまだ子どもだということであって、それに気付くとなんだか酷く情けない気持ちになった。事実、雰囲気でも言動でも、僕が大人っぽいとは到底言えないだろう。……そういう自覚は持っているつもりだ。
「でも駄目だ。親御さんだって君が遅くなったらきっと……」
「今帰ったって、どうせ弟しか居ないよ」
「あ」
 思い出した。彼は両親を二人とも事故でなくしていて、今は弟と二人で暮らしているのだ。
 両親の居ない生徒に、一番言ってはいけないことを言ってしまった。すぐに僕は顔の前で手を振って、
「ごめんね。すっかり忘れていて……本当に悪かった」
「いいよ、そんなに気にしてるわけじゃないし。……ね、先生はさ」
 猫撫で声で呼ばれて、心臓が思わず跳ね上がる。見れば彼が、ずいぶん艶っぽい笑みを浮かべてこっちを見つめている。
 その表情は本当に高校生とは思えなくて、僕と同い年かそれ以上に見えるほどだった。彼が女子生徒に人気がある理由も、今なら十分頷ける。こんな表情をされて、彼に惹かれない子の方が珍しいはず。
「どうして一人で来たの? ひょっとして何にも考えてなかったりする? ……告白してきた人の前に、一人で訪れるってことは、そういうことだって勘違いされても仕方ないと思うな」
「そ、それは駄目だよ! だって君と僕は」
 相変わらず艶っぽい笑みを浮かべて、彼がこちらの方へと歩み寄ってくる。驚いた僕は咄嗟に後ずさり、腰を机にぶつけてしまった。
 僕が、そして彼の気持ちがどうこうという前に、そもそも自分達は教師と生徒だ。関係を持つなんて、あってはいけないことなのだ。……なのに教師の僕が生徒である彼に押されているのは、一体どういうことだろう。
「こっちはそんなの気にしないけどね?」
「それでもっ! 駄目なものは駄目だから……うわっ」
 更にあと数歩後ろに下がろうとして、足を椅子にぶつけてしまった。そのまま足がもつれ、いくつかの椅子や机と共に後ろに倒れ込み、僕は床に体をしたたかに打ち付けてしまった。
「いててて……」
「……先生ってさ」
 彼が、僕と視線を並べるように目の前でしゃがむ。慌てて彼から離れようとしたが、痛む体は言うことを聞いてくれなかった。その上後ろに倒れこんだ際に背中を強く打ってしまったので、上手く息が吸えない。
「ほんっと、そそっかしいよね」
 呆れたような彼の声が聞こえる。
 だが、今の僕は生憎それどころではなかったのだ。顔に何度も触れて、あるものがないことに気付く。
「……め」
「め?」
「眼鏡が、ない」
 彼が目の前でしゃがんでいることは気配で何とかわかるのだが、転んだ際に眼鏡を床に落としてしまったのか、こんな至近距離でも彼の顔がぼやけてしまっている。
 傍に僕の眼鏡が転がっていないかと、手当たりしだいに床をぺたぺたと探るけど、眼鏡らしきものはどこにもない。
「どうしよう、眼鏡がないと僕……」
「そんなに焦んないでよ。これだろ? 先生の眼鏡って」
 僕の目の前に彼が何かを持ってくる。
 目を細めてよーく見ると、それが僕の眼鏡だということに気付いた。
「あ……ありがとう、助かったぁ……」
 手を伸ばして、彼が取ってくれた眼鏡を取ろうとする。……が、
「あれ?」
 眼鏡を取ろうとするその直前、ひょい、と彼が手を高く上げた。眼鏡がないせいで顔こそ見えないが、悪戯っぽく笑う声が聞こえる。
 高く掲げられた彼の手の先で、見せびらかすように振られているのが、恐らく僕の眼鏡なんだろうと思う。
「……リンク君、何してるの?」
「先生の眼鏡、かけさせてよ」
「? ……別にいいけど」
「じゃあ先生、目つむって」
 転んだせいで痛む体をさすりながらもなんとか立ち上がって、言われた通りに彼の前で目を瞑る。もう一度彼の笑い声が聞こえたが、それでも言われた通りに目を閉じて、彼が眼鏡をかけてくれるのをじっと待つ。
「(……?)」
 唇や頬に生暖かい空気があたり、そこから一寸置いて、唇になにかが触れる感触がした。
 不思議に思って目を開けると、そこには、
「!?」
 目の前に彼の顔があった。眼鏡をかけていない今なら、少し離れただけできっと見えなくなってしまうけど、今は近すぎて焦点が合わず、ぼやけてしまうほどの距離に彼の顔があった。
 同時に近すぎてよく見えない彼の顔を見て、ようやく何をされたのかを理解する。
「リンク、くん?」
 彼は顔を離すと、何とか彼の顔がぼやけずに見えるくらいの距離でにっこり微笑んで、
「はい、眼鏡」
 と、さっき言った通り、確かに僕の顔に眼鏡をかけてくれた。
 一方僕はというと、視界が眼鏡のおかげではっきりとしたというのに、先ほどの出来事に頭がついていかず、そのまま体を硬直させ棒立ちの状態のままだ。僕がずっと呆気に取られているのをいいことに、彼はそのままてきぱきと帰りの支度を始めていた。
 通学鞄を肩にかけ、彼は最後に僕の肩をすれ違いざまにぽんと軽く叩き、
「ばいばい、先生」
 僕がやっと動けるようになったのは、彼の足音が聞こえなくなってから暫く経った後だった。

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