「ねぇリンク」
「なに?」
「キス、しようか」
 テーブルの向こうのマルスがティーカップから口を離して、そう切り出してきた。あまりに唐突だったもんで驚いて手に持っていた革表紙の重たい本を落としてしまった。しかもその落とした本が足に激突した。すごく痛い。
 いや確かにマルスはぼくのことが好きだしぼくもマルスのことが好きだ。だからそういうことをするのは別に驚くようなことじゃないし、むしろすごく自然なことではあるんだけれど。その……なんというか、ぼくはファーストキスというものが実はまだだから、そういうことをするのはちょっとまだためらいがある。
 だからそんなことをいきなり切り出されたって困るのだ。こっちにだって心の準備というものがある。わたわたと焦るぼくが本を拾っている間に、テーブルの向こうに居たはずのマルスはいつの間にぼくの隣に立っていた。
「大丈夫?」
「大丈夫……だけどさぁ」
 しゃがんで痛む足をさすっていたら、マルスもしゃがんできてぼくと同じ目線になった。いや、ぼくらの背丈はそんなに変わらないから、立っていてもほとんど同じ目線なんだけれど。
「キス、ほんとにしたいわけ?」
「うん。君としたい」
 こんなことテーブルの下で二人しゃがんでするような話なんかじゃないと思うけれど、マルスの目は真剣だった。それならしょうがないなと思って、
「マルスは、キスしたことある? 手とか頬じゃなくてさ、唇と唇で」
「それは、ない。リンクは?」
「ぼくだってないよそんなの。……どうするのさ」
 マルスは困った顔をして口に指を当てている。まさか何も考えずに言ったつもりなのか、あるいはこっちがキスは経験済みとでも思っていて言ったのだろうか。後者に関してはキスの経験が無くて悪かったな、としか言えない。
「リンクからしてくれないかな?」
「なんでこっちからなのさ。言い出したのはマルスだろ」
「だってさ、その」
 恥ずかしいし。と言ったマルスの顔は林檎みたいに真っ赤だった。マルスの髪や瞳の色は綺麗な青色なので、恥ずかしさで真っ赤な顔とは少し不釣合いだ。
 というよりそもそも恥ずかしいならなんでキスがしたいなんていきなり言い出したのだろうか。やっぱりまさかこっちがキスは既に経験済みだとでも思っていて、キスしたいって言ったらすぐに唇と唇を合わせてキスをしてくれるとでも思っていたのだろうか。
 悪かったな、キスの経験が無くて。と言い掛けたけれどやめて、代わりの心の中で悪態を吐く。まぁ一国の王子様ならちゃんとした結婚相手を見つけるまで唇と唇でのキスの経験は無さそうだ。別に自分がマルスの結婚相手とかそんなわけじゃないんだけれど。そもそもぼくらは男同士なんだし。
 逆にこっちは小さな小さな村育ちなので、やろうと思えばそういう相手は見つかる。それなのにそういう経験がなかったというとまぁ、そういうこと。
「ね、お願い。リンクの方からしてくれないかな?」
「……キスしたいって言ったほうがするもんじゃないの」
「そんなこと言わないでくれ。恥ずかしいから」
 こっちだって恥ずかしいよ。と言い掛けたけれどこれまたやめて、代わりに大きく溜め息を吐く。
「わかった、いいよ」
「ありがとう。……その、目って閉じないと駄目かな」
「わかんないけど、閉じた方がいいんじゃないかな」
 本とかで目を開けてちゃ駄目だとか、あるしさ。とぼくが言うと、マルスがほんのり頬を赤く染めて、ゆっくり目を閉じた。その姿を見てちょっと可愛いと思ってしまった。マルスはそもそも男だし、どちらかというと可愛いよりも美人のほうに当てはまる人なのに。
 ほんとにこっちからキスしないといけないのかとは一瞬思ったけれど、好きな人にキスできるのが少し嬉しくもあるので、そんなことすぐに忘れてしまった。
 左手をゆっくりとマルスの頬に置いて、親指を唇の近くに置き、マルスの青色の髪に残り四本の指を絡める。ぼくもゆっくり目を閉じて、唇の近くに置いた親指を頼りにマルスの唇を探して、そこに自分の唇を重ねた。
 一応自分ではなんとか平静を装っているつもりなんだけれど、本当は心臓が今にもはち切れそうなくらい恥ずかしくて、緊張していた。だって自分にとっての初めてのキスであり、同時に自分が大好きな人にとっても初めてのキスなんだ。緊張しないほうがおかしい。頬に触れている手から、ぼくの心臓の鼓動がマルスに伝わっているかもしれないけれど、きっとマルスだってすごく緊張しているはずだから、ぼくの心臓の鼓動に気付く余裕は多分無いんだろうな。
 三秒くらい互いの唇を重ねて、やがて、唇と左手をマルスから離した。マルスは恥ずかしくてぼくの顔が直視できないのか、目を逸らされてしまう。ぼくもぼくで正直目を逸らしたいけれど、真っ赤なマルスが中々可愛いのでこのまま見ていたいとも思う。
「どう、初めてのキスは」
「……君だって初めてだろう」
「まぁそうだけど。マルス、顔真っ赤」
 よく考えたら今自分達はテーブルの下でしゃがんでいたということを思い出した。初めてのキスって言うものはベランダでとかどちらかのベッドの上でとかもっとこう、雰囲気のある場所でするものだと思っていたんだけれど、テーブルの下じゃ雰囲気も何も無い。まぁ、狭いから体は密着してるんだけどさ。
「立とうか。恥ずかしいし」
「……うん」
 相変わらずマルスの顔は真っ赤だ。しかもよっぽど恥ずかしいのか正座して俯いている。そんなマルスを軽く一瞥して、ぼくは立ち上がろうとした。
「いてっ」
 立ち上がろうとしたけれど、テーブルの真下にいたということを忘れていて、思い切り頭をぶつけてしまった。足の次は頭と来た。マルスとキスできたのはそりゃ嬉しいけれど、なんだかついていない。
「あ、大丈夫?」
 正座をして俯いていたマルスが足を崩して、自分の方に寄ってくる。頭をぶつけたところにマルスの手が触れる。
 ぶつけたところにマルスの手が触れるだけならいいんだけれど、マルスの顔まで近くに寄ってきた。体もキスのときより密着してる。さっきキスをしたときのことを思い出すからやめてくれと言おうとしたんだけれど、上手く声が出なくて言えなかった。
 おかしい。だってこんなのおかしい。さっきマルスとキスをしたばっかりなんだから、顔が近くにあるとか体が密着してるとかそんなことはもうなんでもないはずなのに、それなのになんでこんなに恥ずかしくなるんだろう。なんだか恥ずかしくてもう死にそう。心臓の鼓動も早くなりすぎておかしくなりそうだ。いや、もうとっくにおかしくなってるかもしれない。多分ぼくの顔は今マルスとキスをした時よりも真っ赤だろうな。マルスがこっちを見てる。まだ気付いてないのかきょとんとした顔をしてる。そんな目でこっちを見るからなんだか自分だけおかしいみたいだ。
 でもちょっとの間をおいて気付いたのか、一気にマルスの顔が真っ赤になった。ひょっとしたら湯気が出てたかもってぐらいに顔が一気に赤くなっていく。またマルスが真っ赤な顔を隠す為に俯いてしまった。でもちゃっかりぼくの服を子供みたいにぎゅって握っている。
「えっと……その、リンク」
 でも、俯きながらも口を必死にもごもごさせて何か言おうとしている。なんだろうとぼくが首を傾げると、すっとマルスが真っ赤な顔を上げて、
「も、もう一度、キスしても……いい? 今度は、僕から」
「へ?」
 言われたことがよく理解できなくてぽかんとしてると、ぽかんとしているぼくにマルスがちょっとむかっとしたのか、眉をちょっとだけ吊り上げて、
「だから……その! キスしても、いいかって……」
 もう一度、今度はマルスからキスがしたい?
 ぼくの耳がどこもおかしくないのなら、マルスは確かにそう言ったはず。
「な、何度も言わせないで欲しいんだけどな……」
「あ、いや、うん。いいよ。ぼくは嫌じゃないし」
「本当?」
「うん、ほんと」
「じゃあ、目、閉じてよ」
 マルスに言われたとおりに目を閉じる。暫くしてマルスの温い吐息が唇に当たって、そのすぐ後に微妙にかさかさした何かが唇に当たった。マルスの唇だなって、すぐにわかった。
 さっきと同じように、テーブルの下で三秒くらい互いの唇を重ねて、唇を離した。唇を離しても、マルスも今度は俯かないし目も逸らさない。ただ頬を上気させて、ぼくの顔をじっと見ていた。ただし今度はこっちが相手の顔を見ていられなくなって、恥ずかしさのあまり口を手で押さえて、もう片方の手で、目を逸らしたり俯くかわりにマルスの体を抱き寄せて、マルスの顔が見えないように、マルスに自分の顔を見られないようにした。
 まだぼくの唇に、マルスの唇の感覚が残ってる。思った以上に唇は柔らかくないし、かさかさしているけれどそれでもなんだか妙にリアルに感覚が残っていて、凄く恥ずかしかった。でも恥ずかしいのに、心はすごく満たされてる。少しでも揺らしたらあふれそうなくらいに心が満ち足りていて、幸せだった。
「リンク」
「マルス」
 何か言おうと思って口を開いたと同時に、マルスも口を開いて何か言おうとした。さっきの互いの唇みたいに重なるぼくらの声。……なんだかまたさっきのことを思い出して恥ずかしくなってきた。
「あ、リンクからでいいよ」
「……マルスから言ってよ」
 キスはこっちのほうが先だったんだし。と言うと、恥ずかしいのか、マルスが顔をぼくの胸に押し付ける。
「その、リンク。……好きだよ」
「……ぼくも、同じこと言おうと思ってた」
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。