顔が熱い。頬が火照っている。おまけに胸もちょっと苦しい。
 もしもこれがただの熱だったのなら、薬を飲んでしばらく安静にしていればすぐによくなるけれど、こればっかりはそうもいかない。むしろただの熱だったのならよかったのに。
 なぜなら、いわゆる「恋の病」というものに付ける薬なんて無いからだ。自分がそういう病にかかっただなんて思いたくないけれど、残念ながら胸の痛みも顔の熱さも本物だ。
 壁にかけてある時計に目をやる。とっくに夜も更けていて、起きているのはもう僕くらいだろう。現に同居人はすでに隣のベッドですやすや寝息を立てている。僕も早く寝なければと思っているのに、全然眠くなれないどころか、目を閉じてもあの時のことを思い出してしまって、眠れるどころか逆に目が覚めてしまう。
 あの時のこと。――まあつまり、今日の昼に彼、リンクとキスをした時のことだ。あの時キスがしたいって言い出したのは確かに僕のほうだし、彼とそういうことがしたいとは前から思っていた。でもキスした後にこんな気持ちになるなんて聞いていない。勿論少しくらいは恥ずかしくなるってことはわかっていたけれど、でもこんなにも恥ずかしくなるだなんて知らなかった。
 それをあの時の僕がわかっていたなら、もう少し後になってから言っていたはずなのに。
 今でも鮮明に思い出せるのは、唇の感覚だけじゃない。キスの直前に唇の近くに置かれた彼の指の感触とか、自分の頬に当たった彼の吐息とか、彼の真っ赤な頬とか。色々なことが思い出せる。ああでもそれを思い出したらまた恥ずかしくなってきてしまった。こんな状態じゃ眠れるわけがない。頬をぱちんと叩いて。もう一度時計を見る。いつもならもう夢のひとつやふたつ見ているような時間なのに、全く眠くなれなかった。
 しょうがないからともう吹っ切れて、ベッドから出る。水差しからコップに注いだ水を一気に飲み干して、寝巻きの肩に服をかけて、部屋を出た。





 当たり前のことではあるんだけれど、こんな時間じゃ何処にいても誰の姿も見えない。僕もそう思って中庭に足を進めているし、むしろこんなに顔を赤くしているから今は誰にも会いたくない。とりあえず少し寒いけれど、夜風に当たって少しでも赤くなった顔を冷ますことが出来るのなら、それでいい。
 早足で歩き続けて中庭に出て、服を汚してしまうので腰を落とすことは出来ないけれど、草むらの上にしゃがんで、雑草を一本ぶちりと抜いた。同居人が目にしたら手が汚れますなんて言ってきっと怒るだろう。僕の同居人は何故か僕が傷付いたり汚れたりするのをとにかく嫌う人だから、同居人の前で土を触ったりなんて出来ない。草を引き抜いてしばらくいじって、なんだか虚しくなってそのまま草を地面に落とす。僕は膝を抱えて蹲った。
 目を閉じていても浮かぶのはあの時の赤くなった彼の顔ばかりで、同時にあの時のことも鮮明に思い出してしまってまた恥ずかしくなる。文字通り頭の中は彼でいっぱいだ。彼で脳みその容量はいっぱいになってしまって、他のことなんて何も入らない入れられない。こんなにも彼に頭の中が彼でいっぱいになるだなんて、誰が想像しただろう。僕だってこんなことになるなんて思っていなかった。
 冷たい風がびゅう、と吹いた。……だめだ。こんなの僕らしくない。今日だって顔が赤いとかぼけっとしていたとか、色んな人におかしいと言われていたのに、こんなんじゃ明日からずっとおかしいと言われ続けてしまうだろう。普通で居たいのに、こんな状態じゃとてもじゃないけど普通では居られない。皆と顔を合わせることが出来ない。
 まして、明日から彼といつもどおりに面と向かって顔を合わせることなんて、今の僕に出来るのだろうか? 勿論そんなことできるわけがないだろう。この気持ちが落ち着くまで彼には絶対に会いたくない。いや、こんな状態じゃ彼には会えない。
「マルス?」
 後ろから声がした。まさかこんな遅い時間だから誰かに声をかけられるなんて思っていなかったので、心臓が口から飛び出してしまいそうなくらいに跳ね上がる。体も思い切りびくんと震えた。
 それ以上に驚いたのは、僕の記憶が間違っていないのなら声の主は、僕が今一番会いたくない人であることだった。
 慌てて立ち上がった。どこも汚していないのに服を軽くはたいて、何故か髪も手ぐしで整える。寝巻きのままだったのでカチューシャを部屋に忘れてきたことに気付いた。でもそんなことどうでもよくなるくらいに心臓が高鳴っている。心臓の鼓動が早くなりすぎて頭のどこかがおかしくなっているんじゃないだろうかと疑いたくなるほどだ。少なくとも今の僕の頭では正常な判断は出来ない。高鳴る心臓が抑えられなくて、服の胸元を強く握りすぎてくしゃくしゃにしてしまった。
「何してるの?」
 もう一度声をかけられた。ああ、やっぱり声の主はよりによって今一番会いたくない人だった。
 どうしよう、振りむくことが出来ない。冷たい夜風に当たって少しだけ頬の熱が引いたのに、一瞬で戻るどころかより一層酷くなってしまった。こんな真っ赤な顔彼に見せられない。こんな時間になっても眠れずに顔を赤くしているだなんて彼に知られたくない。
「なんでもない」
 とりあえずこのままではいけないと、声を何とか絞り出すことができた。
「なんでもないわけないだろ。今何時だって思ってるんだ」
「リンクだってこんな時間に、どうして」
「ぼくは……その、マルスの姿が見えたから。ねぇ、どうかした? 眠れないの?」
 どうかしたもなにも、眠れないのは彼のせいだ。あの時キスがしたいって言ったのは自分なので、僕にも非はあるから、全部彼が悪いわけじゃないけれど。
 草を踏む音が聞こえた。彼が近づいてくるのが分かる。このままじゃ真っ赤な顔を見られてしまう。どうしよう、絶対に顔を見られたくないのに。お願いだからこっちに来ないで、近付かないで。
「……来ないで、くれ」
「どうして」
「いいから、こっちに来ないでくれ」
 そう言ったはずなのに、また草を踏む音が聞こえた。さっきよりもずっと音が近くなった。彼の気配も濃くなった。すぐ後ろに彼がいると分かると凄く居たたまれなくなってしまって、駆け出してしまう。駆け出した先は袋小路なので、行き止まりになってしまうのに。
「待ってよ!」
 彼が僕を追って走る。嫌だ、追ってこないで。彼から離れたいから逃げ出したのに、彼は僕を追ってくる。来ないで来ないで来ないで。そう思っているのに彼の足音は消えない。
 とうとう走り続けて行き止まりになってしまった。足を止めたらすぐに彼に腕を掴まれた。
「マルス!」
「離せ! 離してくれ! ……っん、う」
 唇を唇で塞がれて、彼に言葉を遮られた。昼の時はとけそうなぐらいに甘かったのに、今のは突然で、全然甘くなんかないキスだった。
「……マルス、落ち着いて」
 唇を離されて、僕の腕を握っていないほうの手が自分の頭にまわって、あやすように彼に頭を撫でられる。僕は俯いている上に暗いから、顔が赤いことは気付かれていないみたいだ。
 落ち着いてだなんて、昼だってそして今だってこんなことしておいて、よく言えたものだ。
「離してくれ」
「手を離したらマルスは逃げるじゃないか。嫌だよ」
「逃げない、から」
 勿論嘘だ。今すぐにでも逃げ出したいけれど、彼は一向に手を放す気配がない。それもそうだろう。こんな人を放っておいたりなんか、彼に出来るわけがない。
 鼻の奥がつんとして、目頭が熱くなる。なんだか気持ちが高ぶりすぎてで涙が出てきてしまいそうだ。
「落ち着いてよ。……大丈夫。もう何もしないから」
「……君が悪い」
「え?」
「君が悪いんだ。君のせいで全然落ち着けない。恥ずかしくて眠れもしない。今日だって何をしたって君のことばっかり思い浮かんでしまって、色んな人に様子がおかしいって心配された。明日も絶対に上手くなんかやれない。……酷い、君は。だってこんなに僕をめちゃめちゃにして、なんで一番会いたくない時に君がここに来るんだ……!」
 自分でも何を言っているのかわかっていないし、そして何を言いたいのかもわからない。ああ、やっぱり今の自分じゃまともなことを考えられなくて、変なことを言ってしまう。でも彼はずるい。まともな思考が出来なくなるくらいにこんなにも僕の頭の中を彼でいっぱいにさせて、こんなにも僕を彼に夢中にさせて、そのくせ落ち付けだなんて僕に言う彼は、ずるい。
 涙が、とうとう堪えきれずに出てきてしまった。しかも一粒二粒なんかじゃなくてぼろぼろと雨のように一気に目から零れてくる。嗚咽も必死に押し殺しているはずなのに喉からあふれてしまう。
「ごめんね」
「謝らないでよ」
「だってぼくが悪いって、言っただろ」
「いい。謝らなくて、いいから」
 彼が頭を撫でていた手を、今度はそっと僕の頬に置いて、顔を持ち上げその指で涙をぬぐってくれる。その動きが妙に優しい。優しすぎて心がずきりと痛むくらいに。
 もう自分の顔が赤くなってるとかそんな場合ではなかった。このままでは泣きすぎて目まで赤くしてしまう。真っ赤にしていた顔が見せられなくて逃げ出したと思えば、今度はぼろぼろ泣き出したりだなんて、彼にも手に負えない人だなんて思われているだろうな。自分でももう本当にどうすればいいのかわからない。
「君なんか嫌いだ」
「ぼくは……」
 そこまで言いかけ、彼はもう一度自分の涙をぬぐう。ぬぐってもぬぐっても僕の涙は全く止まる気配がなくて、彼の指をどんどん濡らしてしまう。
 彼はどうしたものかと困った顔をして、ずっと僕の腕を掴んでいたその手を離して、僕の背中をさする。ずっと掴まれていた腕を離されたから今なら逃げ出せるけれど、もう僕の中に逃げ出す気力なんてなかった。
「ぼくは好きだよ。マルスのこと」
 そう言って、彼が額を合わせる。――そのくらい、言われなくてもわかっている。
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