「あ」
 春の風を部屋の中に入れようとカーテンを開け、ベランダに続く窓を開けようとしたマルスが、小さな声を漏らす。
 見ればベランダで何かを見つけたのか、マルスはしゃがんで何かをせっせと拾い集めているようだった。椅子に座ってそれを見ていた自分も、席を立ってマルスの近くに寄る。
「どうしたんですか?」
「見てくれロイ、綺麗だろう?」
 そう呟いて腰を上げるマルスの手の上には、薄桃色がかかった花びらが数枚あった。見ればベランダにも同じ花びらが数枚落ちている。マルスはこれを拾い集めていたのだろう。
「綺麗ですね。あの木の花びらですか」
「あぁ、『桜』と言ったかな」
 風に飛ばされてしまわないよう、花びらを乗せた手を包み込むようにもう片方の手を重ねながら、マルスがベランダの向こう、中庭にある大きな木を見る。
 ロイも同じように視線を合わせて、こうやって眺めている今もなお花を美しく散らせるその木と、風に煽られそれなりの高さまで舞い上がる花びらを眺めた。
 数日前にはあれだけ綺麗に咲き誇っていたことを二人とも知っているだけあって、こうして花が散っていく光景には寂しさを覚えるかと思ったが、散っていても美しく見える花とは、中々珍しいなと少し関心するものがあった。
 マスターハンドがまた不思議な力を使って、中庭の一角にあの桜の木を置いたのは、今から二週間前のことだ。
 あと数日もすれば美しい花が咲くから、とにかくそれまで待って欲しい。花が咲いたら、皆でお花見をしよう。マスターハンドはそれだけ言って、強引に不思議な力で桜の木をあの場所に植えたのだ。
 そして一週間前には見事に咲いた桜の木の下で、花見をしたのだ。うっとりと桜を眺めながら、シートの上に腰をおろしジュースを飲んでいたマルスの姿は、今でもすぐに思い出せる。
「あの木とこの花びらには、どうやら不思議な謂れがあるようだね」
「謂れ、ですか?」
「そう、マスターハンドの世界では、丁度この花が咲く頃に学校を卒業したり、新しく働き始める人が多いみたいなんだ。だから、そんな時期に咲くこの花は、出会いと別れの象徴として扱われているそうだよ。あとは……こうやって散る花の儚さを詠った詩も多いみたいだ」
「言われてみれば、なんだか儚い感じもしますね」
 一段と強い風が吹き、自分達が立っているベランダにまで桜の花びらが届く。強い風に乱れた髪を手で整えるマルスの姿が横目に見えた。
「それと、あの木の下には死体が埋まっている、なんてことも言っていたけど……そっちは流石にどうだろうね」
「それはいつものマスターハンドの冗談なんじゃないですか?」
「僕もそう思っているよ。……あ、ロイ」
 なんですか、と自分が尋ねるよりも早く、マルスの手がロイの髪に触れる。
 自分が先程言いかけたことを再度口にする余裕も無い一方で、マルスは穏やかな笑顔で、頭を撫でるような手つきでロイの髪に触れ続けていた。
「花びらが、髪にくっついていたんだ」
 そう言って、先ほどまで自分の髪に触れ続けていた手を見せてくる。
 確かにマルスの手のひらの上には、二枚の花びらがあった。
「そ、そうですか……」
「うん、少し風が強いからね。待ってくれ、まだ……」
「い、いいです! あとは自分でやりますから!」
 マルスはハンカチを取り出し、持っていた花びらをハンカチの中に全てしまう。そして何を思ったか、その手でもう一度自分の髪に触れてくる。
「違うよ、寝癖が残っているんだ。……少しじっとしてて、直してあげるから」
 その手が自分の頭の上で動いて、手櫛で髪をそっと梳かされている。
 マルスのあの指が自分の髪をすいているのだと思うと、恥ずかしいやら嬉しいやらでどんどん頬が火照っていくのが、自分でもよくわかる。
「それも自分で直しますっ!」
「どうしてだい? このくらいなら君も別に構わないだろう? ほら、じっとして」
 抵抗する自分を抑えるかのように肩に片方の手を置かれては、断るものも断れない。さらに顔が赤くなるのがわかった。
 全然構わなくなんかない。そう叫んでしまいそうになったのを、ロイは全力で堪える。相変わらずマルスはこちらが何を考えているのかは分かっておらず、丁寧に自分の髪を梳き続けていた。
 確かに、こうしてマルスが自分に触れていてくれるという点では構わないどころかむしろ嬉しいのだが、好きな人にそうされ続けていると、自分としてはどうしていいのかわからなくなってしまうのだ。
 それに、これではまるで自分が子ども扱いされているようだ。
 確かにロイのほうが年下ではあるが、マルスには出来るだけ対等に扱ってもらい、あわよくば、というのが自分の望みであって、つまりこうされるのは非常に不本意なことなのだ。……触られることだけは素直に嬉しいのだが。
「はい、出来たよ。次はちゃんと気をつけないとね」
 満足げに微笑んで、マルスが自分の髪から手を離す。
「……ありがとうございます」
「大したことじゃないさ。……戻ろうか、花びらが部屋に入ってしまう」
 そう言って、マルスが踵を返し、部屋に戻る。
 一人ベランダに残されたロイは、先程マルスが整えてくれた髪に触れる。そこにはまだ、マルスの手の感覚が残っていた。
 次はちゃんとしっかり髪を整えろとは言われたものの、またこうしてマルスの手で髪を整えてもらえるのなら、少し手を抜くのもありかもしれない。
 そう頭の片隅で考えてしまった自分がなんだか情けなくて、それでも嬉しくて、ロイはその場で苦笑いを浮かべたのだった。
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