「待って、マルス!」
 こちらを振り向きもせずに、速足で歩き続けるマルスの背中を、僕は一心不乱に追い続ける。
 マルスの姿が今にも見えなくなろうとした時、矢も盾もたまらず僕は、あの場から動かなかった二人を置いて、マルスの背中を追いかけた。
 かなりの距離がある上に、元々マルスは歩くのが早い。これでは僕は走っても中々追いつけないし、曲がり角にでも入られたら、それこそマルスを見失ってしまいそうだった。
 でも、ここでマルスを見失いたくない。
 今この場でマルスの姿を見失ってしまったら、たとえ一月にも満たない時間だったとしても、今まで僕達が一緒に過ごした何もかもが壊れてなくなってしまいそうで、僕にとってそれはたまらなく恐ろしいことだと思えた。
 ただ幸いなことに、マルスはずっと長い通路を真直ぐ歩いてくれているので、今のところは見失わずに済みそうだ。
 王族だというだけあってマルスはこんな状況でもしっかりと背筋をぴんと張って歩き、一歩踏み出す度に長い青のマントがひらひらとはためく。
 それを見て、僕は思い出す。
 僕があの未来の中で見た燃える旗に描かれていた紋章と、今マルスが身に着けているマントに描かれた紋章は、全く同じものだ。
 やはり、あれはマルスの国が滅ぶ瞬間の未来。こんな状況でそんなこと知りたくなかったが、知ってしまったものはどうしようもない。
 マルスはそんな未来は忘れろと言ったが、僕にそれが出来るはずもなかった。
「マルス!」
 走り続けたせいで上手く働かない喉と肺を叱咤して、出せる限りの大声でマルスの名前を呼んだ。
 既にマルスと僕の距離はかなり縮まっており、あと少しでマルスの腕を掴んで、引き止めることが出来る。
 そう思って僕が手を伸ばそうとしたその瞬間、ぴたりとマルスが歩み続けるのをやめた。
 僕も、それに続いて走るのをやめる。マルスの腕を掴もうとした右手は、虚しく空を掴んだ。
「……わかっていたんだ。それこそ、君がその未来を見る前から」
 マルスがぽつり、ぽつりとまるで独り言のように話し始める。
 相変わらず僕に背中を向けたままなので、その表情がどんなものか窺い知ることはできない。
「僕が何も気づかないわけがないだろう? 僕の国の名前はアリティアで、彼ら二人の国の名前はイーリス。そしてルキナは僕の血を引いている。……これが何を意味しているのか、君達が来てからずっと考えていたんだよ」
 マルスの言うことも、もっともだった。
 僕達はここに招かれた際に、皆の前で自己紹介をしなくてはいけない。それも当たり前だ。僕達がこの世界ですることは戦うことだけではないのだから、コミュニケーションを取ろうとするためには、互いのことを知らなくてはいけない。
 当然の如く僕もルフレ達も、短いながらも自分のことをそこで話していた。酷く簡単なことなのに、どうして気付かなかったのだろう。
 先祖と子孫という、同じ血を引く者同士なのに、それぞれが治める国の名前が違う。その事実が意味するものは一体なにか。
 時代が変わったことで国の名前が変わっただとか、何らかの理由で国や王統が分裂しただとか、そういった可能性もあったのかもしれない。実際にマルスはその可能性を強く信じていたはずだろう。……僕が、あの未来を見るまでは。
「違っていれば、よかったのにな」
 勿論、最悪の可能性だってマルスは考えていたはずだ。
 僕があの時見たものとよく似ている、最悪の可能性を。
「ねぇ、シュルク。君が機械を好きなように、僕は歴史がそれなりに好きなんだ」
 君ほどではないけれどね。
 そう言って、マルスがくすりと笑ったのが後ろ姿からでもわかる。
「この世界には異世界の歴史書が山のようにあるから、僕はこの場所で色々な歴史書を読み、色々な国や大陸の興亡を知った。そこで思ったんだよ」
 確かにマルスは、よく本を読んでいた。
 僕が機械や科学のことなどマルスの知らないことをたくさん知っているように、兵法や歴史、文学などマルスだって僕の知らないことをたくさん知っている。そもそも専門こそ違うだけで、マルスの知識欲だって僕に勝るとも劣らないのだ。
「永遠の平和はない。一見その世界は平和になったと思えても、それはもって数百年のこと。きっとそれはアカネイアも変わらない。いや、変わらなかったからこそ……今この場所に、ルフレとルキナが来ている」
 機械弄りをしている僕の横で、機械の設計図を描く僕の横で、マルスの仲介で他のメンバーに機械を見せてもらっていた僕の横で、マルスは度々本を読んでいた。
 マルスは剣を振るう姿よりも、本を読む姿の方が様になっている。それくらいしか思ったことが無くて、何を読んでいるのかちゃんと聞いたことはそんなになかったが、覚えているだけでも大衆向けの軍記物や分厚い兵法書まで、本当に様々な本を読んでいた気がする。
 もちろん歴史書も読んでいた記憶があった。
 その本の中でひとつの国や大陸が滅んでゆく様を読みながら、一体マルスは何を考えていたのだろう。
「だからわかっている。その未来は恐らく現実になるし、あの二人の為には現実にさせないといけない。さっきも言ったが、僕を救いたいという君の気持ちには感謝しているよ。でもどうにもならない未来もあって、君の見た未来がまさにそうなんだ」
「……マルスは、こんな未来辛くないの?」
「それがさだめだからだよ。僕は一個人である前に、アリティアの王子でもある。彼らの時代までこの血を絶やさないためにも、そのさだめを受け入れなくてはいけないんだ」
 やけに芝居じみた口調で、マルスが言う。これが本当に演技なら、どれだけよかったことだろうか。
 そして優しくて純朴で、一見すると嘘もつけないような性格をしているわりには、その芝居じみた口調は随分と慣れているように感じられた。恐らくマルスは、これまでの人生の中で、今のように泣き出したいほど辛くてもそう振舞わなくてはいけない時があったのかもしれない。
 あの二人と、二人が生きる時代のために、未来を変えない選択をしたマルスの気持ちは、痛いほどによくわかった。だが、歴史書の中でいくらたくさんの国や大陸が滅んでいったとしても、マルスの国までもが滅んでいい理由なんて、そんなものはどこにもない。
「でもこのままじゃ、君は見殺しにされるんだよ? こんなことって……」
「違うよ。見殺しにするのは、他でもないこの僕だ。僕は未来を知ってもそれを変えない。そうすれば君の見た未来の通りに、僕の国は滅びるだろう。だから僕は」
 そこまで言って、マルスがようやく僕の方を振り向いた。その顔は確かに笑みを浮かべているはずなのに、青い瞳は少しも笑っていないどころか、この距離でもわかるほどに大きく揺れていた。
 僕が今までに見た中で、最も痛ましいと思える笑顔だった。
「国を、見殺しにするんだよ」
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。