「どうぞ」
 そう言ってシュルクさんの前に、淹れたばかりの紅茶を差し出す。
 しかし椅子に座ったまま俯いているシュルクさんは、一向にそれを受け取ろうとはせず、仕方なく私はそれをシュルクさんの前に置いた。
 あの後、呆気に取られていた私とルフレさんを置いて、シュルクさんは英雄王を追って駆け出して行った。その後ろ姿を見送ってから暫く立った後、ルフレさんも探し物があると、図書棟の方へと行ってしまった。恐らくルフレさんはこの世界に来る前に言っていたものを、今必死に探しているはずだ。
 そしてルフレさんまでもが立ち去っていったことで、一人取り残された私は、英雄王とシュルクさんが消えていった方向へと歩を進めた。もしその先で英雄王に会ってしまったら、一体なんと声をかければいいのかわからなかったが、それでもシュルクさんには、一つだけ話したいことがあったのだ。
 しばらく歩き続けたところで、私は夕焼け色に染まる屋敷の通路で、ひとり立ち尽くすシュルクさんをの姿を見つけた。
 私が近づいても、シュルクさんは何も言わないどころか、こちらを振り向くことさえしなかった。恐らくここで英雄王と何か話をして、……そして何か辛いことを言われたのだろう。
 それから、立ち尽くしたままのシュルクさんに部屋に来てほしいのだと言えば、彼は途中一言も発することなく、私の後をついてきてくれた。
 その無言が、かえって私の心に重く圧し掛かる。少なくともシュルクさんが、過去を変えない選択をした私達に一言でもいいので恨み言を口にしてくれれば、そちらの方がいくらか楽になれたに違いない。
「シュルクさん。貴方に、お話ししたいことがあります」
 シュルクさんの真向いの椅子に腰掛け、徐ろに口を開く。それでもシュルクさんは、顔を上げようとはしなかった。
「本当は私も、あなたと何も変わらないのです」
 その言葉で、ようやくシュルクさんがその顔を上げてくれる。
「英雄王には既にお話ししましたが、貴方にはまだ話していませんでしたね。私も過去を変え、望まぬ未来を変えようとした経験がありました」
「……どういうこと?」
「私は滅びの運命を変えるべく、未来から十数年の時を超え、ルフレさんの居た時代へとやってきた人間です。そのため私とルフレさんは同じ時代に生きる人間ではなく、本来ならば親と子ほどの年齢差があります」
「君とルフレが、親子ほどの年の差……」
 シュルクさんが、驚きから目を見開く。やはりにわかには信じがたいものがあるのだろう。
 英雄王にこれをお話した時も勿論だが、元の世界でお父様やルフレさんたちにこの話をした時にも、似たような表情をされた。誰に話したところで簡単に信じてもらえることでないのは、私も重々承知している。
「そして私は長い戦いの末に、実際にこの手で未来を変えました。……ですから私がしたことと、あなたが英雄王のためにしようとしたことは、本質的には何も変わらないのです」
 それなら、どうして僕を止めたんだ。――そう罵られるのを覚悟の上で、私は言葉を発したが、シュルクさんは辛そうな表情で私から目を逸らすばかりで、何も言ってこない。
 しかし何も言ってこなかったとしても、私がそう罵られてもおかしくないことをしたことに変わりはない上に、事実頭の中ではそう罵るシュルクさんの声が聞こえたような気がした。
 君にどう思われようと構わない、それでも僕達の歴史だ。――シュルクさんに怒って掴みかかったルフレさんが叫んだ、あの言葉を思い出す。
 実際に過去を変えてしまった私が隣に居るのを知った上で、ルフレさんがそう叫んだのかはわからない。ただ、その言葉はシュルクさんだけではなく、私の胸にも深く突き刺さったのは確かだった。
 勿論たかが数十年の歴史と、千年近く歴史を変えるのとでは、その規模はあまりにも違うために、全く同じだと言うわけにはいかない。しかしそれでも私やシュルクさんが、壊した未来の先に生きる人々のことを考えずに、過去を変えようとした事実は変わらないのだ。
「私や、私の仲間たちが過去へと遡り未来を変えたことで、大陸に平和が訪れたと私は信じていました。……ですが今になって考えるとそれは同時に過去を書き換え、あの未来の中でも必死に生きた誰かを否定する行為であったのかもしれません」
 たとえば私が、過去に遡ることで絶望の未来を根本から変えることをよしとせず、あの未来の中でも戦い続ける覚悟を決めていれば。
 そしてその可能性こそ低くても、私達がその覚悟の末に邪竜を倒すことに成功したとする。絶望の中でつかみ取った未来をこれから歩もうとしていた時に、誰かに過去を変えられ、それを壊されてしまったら。
 きっと私は、自分の覚悟も努力も全て否定されてしまったと感じるに違いない。
 この未来が間違いだったというならば、今まで私達は何のために足掻き続けてきたのだと、そう嘆くに違いない。
 過去を変えて誰かの未来を壊すとは、そういうことだ。
 英雄王とシュルクさんの望む未来に、私達の居場所はないのだろう。
 それゆえ英雄王とシュルクさんが過去を変えて、私達の未来を壊してしまうのはとてつもなく恐ろしいことだと感じたし、同時に自分がしたことは、とても恐ろしいことでもあったのだと初めて思えた。
「自分達を守るために、あの時の私は過去を変える選択をしました。そして自分達を守るために、今の私は過去を変える選択を拒みました。……そんな私を身勝手で独善的であると罵ってくれても構いません。あなたには、その権利があるはず」
 ごめんなさいと囁いて、テーブルの向こうに座るシュルクさんに頭を下げる。
 今の私は、彼に何を言われても受け入れるつもりだ。お父様やお母様、ルフレさんとその仲間の方々、そして私と同じ時を生きた皆の為とはいえ、彼が踏み止まったことを私はしてしまったのだから。
「もういいんだ。顔を上げて、ルキナ。……僕だって自分の都合のいいように未来を変えようとして、結果君達を巻き込もうとした。身勝手で独善的なのは僕も変わらない」
 言われたとおりに顔を上げれば、そこには悲しそうに笑うシュルクさんの姿があった。
 こんなことを言っても私を責めようとしないシュルクさんの優しさに、かえって胸が痛みだす。
「僕だって未来を変えることが、その先に生きる誰かを否定する行為でもあったなんて、そんなの考えたこともなかった。マルスの国にある命の数と、僕が見た未来の先から君達の時代までにある命の数……どちらがより大事かなんて、異世界の住人である僕が勝手に決めていいはずがない」
「……ごめんなさい、シュルクさん。違う世界の住人であるあなたに、そんな重たいものを背負わせてしまった私達を、どうか許してください」
「別にいいよ。……でも、やっぱり思うんだ」
「何ですか?」
「ねぇ、ルキナ。マルスは辛いと思う?」
 シュルクさんは、もうあの未来を変えるつもりはないのだろう。
 それならば問題は、英雄王の御心のことだ。
 自分達の子孫のために、自らの国が滅ぶ未来を選ばざるを得なくなってしまった英雄王は、一体どのような気持ちでいるのか。それは私たちが考えるまでもなかった。
 私もこの世界に来る前にルフレさんとお話はしていたし、自分達が英雄王の御心を傷付けかねない存在であることは、重々承知の上でこの場所へと足を踏み入れた。それでもこのような形で、英雄王に私たちの未来が知られてしまうのはあまりにも予想外の出来事だった。
 ただ折を見て全てを英雄王に話す、そのつもりで居ただけなのに。
「私に答えていい権利など、本来ならば無いと思います。ですが……辛いと思わないはずが、ありません」
「そう、だよね」
 それだけ言って、シュルクさんが再び俯いてしまう。私も居たたまれなさから、思わず俯き、黙り込んでしまう。
 服の袖をぎゅっと握る。私はこの青い衣を身に纏うことで、英雄王から数えきれないほどの勇気を貰い続けていたのに、私達では英雄王の御心を救ってはあげられない。その事実がどうしようもなく辛く、そして苦しかった。
 私の向かいで俯いたままのシュルクさんも、きっと同じように辛いのだろう。
 英雄王が最も辛いと感じる未来を見てしまったのに、変えようと思うことさえ許されない。
 もしも何も見ていなければ、ただの遠い異世界の、自分には全く関係の無い出来事で済んだはずなのに。あの未来を見せられたことで、私達は彼をも巻き込んでしまったのだ。
「……」
 間に漂う沈黙は一向になくならないまま、そのまま時間だけが過ぎていく。
 しかし暫くして、部屋にノックの音が響き渡り、その沈黙を打ち破った。
 私が扉を開けると、そこには私よりも濃い青の髪に、その伝説通りに屈強な体つきをした蒼炎の勇者、アイクさんの姿があった。
「アイクさん? どうしてここに」
「マルスの姿を見なかったか?」
「英雄王が、どうかなさいましたか?」
 私がそう尋ねると、アイクさんは何故こんなことになったのかわからん、と言わんばかりに顔を顰めて、
「あいつ、五時半から乱闘があったくせにいつまで経ってもステージにこなかったらしい。とりあえず近場に居た俺が代打として出されたんだが、あいつみたいな真面目な奴が今までこんなことをしたことは一度も無くてな、……何か心当たりはないか?」
 その言葉にはっと息を飲む。
 椅子に座ったままのシュルクさんも、その言葉に何か気付いたようだ。
 英雄王はとても生真面目な方で、予定された時刻に遅れることはまず無いと、以前からこの世界に居た方にも聞いたことがあった。それだけに、たった一回だとしても、今回のようなことはとても珍しいのだろう。
 時間が分からなかったのかもしれないが、以前シュルクさんから時計を頂いたことを私達にも自慢げに話し、それを肌身離さず持っている英雄王に限ってそのようなことはあり得ない。
「もしかして、やはり英雄王は……」
 それに五時半というのは、ちょうど私とルフレさんがシュルクさんとすれ違い、そのまま口論になった頃と重なる。
 恐らく英雄王はステージに向かっていたその途中で私達を見つけ、そこであの会話を耳にしてしまったのだろう。そして、その後英雄王はあの場から立ち去り、どこかへ……
「……!」
「シュルクさん!?」
 突如としてシュルクさんが椅子から立ち上がり、アイクさんと私の間を通り抜け、あっという間に通路の向こうへを走り去っていく。
「何だったんだ、あいつは」
「恐らく……英雄王を探しに行ったのでしょう」
 ぎゅっと力をこめて、手のひらを強く握る。
 英雄王の御心を傷付けている原因のひとつである私に、本来ならばこのようなことを思う権利などないのだろう。
「何事も無ければ、いいのですが」
 それでも、こう思わざるを得なかった。

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