「今日のルフレさんは、なんだか元気がありませんね」
 長い長い廊下の窓から外の景色をじっと見つめていると、後ろからよく知る声がする。
 振り返るとそこには、心配そうな面持ちをしたルキナの姿があった。
「ルキナには、そう見えるかい?」
「ええ、いつもの貴方らしくありませんので」
 ルキナとは朝食の席が一緒だったので、どうやらそこで元気のない自分の姿を既に見られていたのだろう。
 思い起こせばあんな夢を見たせいか、食欲がいまいち湧いてこなかったため、朝食はほとんど残してしまっていた。そんな姿をルキナに見られてしまえば、心配をかけてしまうのは無理もない。あんな夢を見てしまったとはいえ、あの場でそこまで考えの至らなかった自分が、なんだか情けなかった。
「……君には敵わないな」
 おどけたようにそう笑ってみせたが、それなりに長い付き合いだ。僕が虚勢を張っていることは既にお見通しだろう。
 実際におどけて笑う僕に合わせて、ルキナも少しだけ笑ってくれたが、その顔には何があったか自分に話してほしい……そう書いてあるのが、ありありとわかる。
「夢を見たんだ」
「夢、ですか」
 不思議そうな表情で僕の顔を見つめるルキナの顔を、じっと見つめ返す。
 やはり彼女には、英雄王の面影がある。
 勿論彼女だけではない。僕の半身とも言うべき唯一無二の親友も、その血を引いていると言うだけあって、確かに英雄王の面影があった。
 こうして彼女の顔をじっと見つめていると、二千年の歳月が流れようと途絶えることのなかった英雄王の血筋に改めて驚かされる。きっとシュルクの夢の中に居た初代聖王も、僕があの夢で見たものと同じように、彼ら三人ととてもよく似ているのだろう。
「ああ。僕が邪竜になって、千年前に英雄王の国を滅ぼす夢だ」
 僕の言葉に、ルキナの表情が一気に凍り付いた。そんな表情も、やはり英雄王に似ていると感じた。
 数日前に彼らも僕達も予期しない形で英雄王の未来を見てしまい、それを変えようとしたシュルクを何としても止めようと、僕は彼に掴みかかって怒鳴った。
 明らかにあの時の僕は頭に血が上っていた。それゆえに、近くを通りすがった英雄王が、僕達の会話を聞いてしまったことにも気付かなかったのだ。
 自分の国がいずれ滅ぶのだと僕達に聞かされた時の英雄王の顔と、今のルキナの表情は、やはり似ていた。
「あの日、シュルクの未来視と僕達の持ち得る知識で、英雄王の心は救われた」
 あの時代を共に生き抜いた者達の代表として、僕達はこの世界に来ている。
 そんな立場である以上、英雄王やシュルクが未来を変えようとするならば、僕達はそれを何としても止めなくてはいけない。
 過去の時代の人間からすれば、僕達の時代は、そして歴史は間違ったものだった。――だから過去を大きく書き換えて、歴史を過去の人間から見て正しい方向へと直す。勿論間違った時代に生きた僕達は、間違った未来と共に消えなくてはいけない。そんな提案に頷ける人間は、あの時代にまず居ないだろう。
 だから僕はシュルクを止めた。その選択は決して間違っていなかったと、僕は今でも信じている。
 たとえ僕自身の抱えているものが何であれ、選ぶべき選択肢は変わらない。
「でも、君も知っているはずだ。あの未来視はあれで終わりじゃない。あの未来視には邪竜と初代聖王が居た。ルキナ、君は初代聖王と英雄王の血を引いている。そしてかつての僕は、」
「やめましょう、ルフレさん。こんな話を私は……!」
 ルキナが、その拳にぐっと力を込める。
 彼女だけは知っているのだ。この世界に来る前に、誰にも……英雄王にさえ話さないと決めたはずの、僕の最大の秘密を。
 そして、あの未来視と僕との繋がりも。
「以前この世界に来る時に既に話し合っていたが、最早僕たちの予定からは大幅に逸れてしまった。だから僕は改めて君に聞きたいんだ。……英雄王にこのことを話すべきだと思うかい?」
「……それは、ルフレさんが決めるべきことだと思います。私からは何も言うことはありません」
「君の未来を滅ぼしたのが、僕だとしても?」
 僕の言葉に、ルキナがはっと息を飲む。
 そして出来るだけ僕を傷付けることの無いように、慎重に言葉を選んでいるのだろう。ルキナは苦しそうな面持ちで、暫く考え込んだ末に、
「でもあれは……あれは貴方であって、貴方ではない存在だった! それはルフレさんが一番よくわかっているはず!」
「そうだ、あれは僕じゃない。だが何もしなければ、あれは定めの通り僕に宿るはずだったものだ。ルキナもあの未来で僕が何をしたのか、覚えていないわけがないだろう?」
 絶望の未来で僕が何をしでかしたのかは、ルキナが一番よくわかっているだろう。
 今の僕達の関係がどうであろうと、ルキナが本来居たはずの未来では、僕は彼女が最も敬愛する父親の仇であり、大陸を絶望に陥れた最も憎むべき存在であることに変わりはない。全てが解決した今でさえ、僕はルキナの剣で未来での罪を裁かれても構わないと考えている。
 本来僕に宿るはずだったあの力は、二つの未来を滅ぼしているのだ。
 一つは、ルキナが本来居たはずの未来。そしてもう一つは、英雄王の未来だ。
 そこまでの大罪を、僕が器としての役目を失ったから、あるいはそもそもそこまで彼らに教える必要がないから……などと言い訳付けて、隠し通し続けるのは、果たして本当に正しいことなのだろうか?
 ルキナはもう、何も言おうとはしなかった。
 僕に何を言ったらいいのかわからないのだろう。相変わらずぐっと拳に力を込めて、ただ俯いているだけだ。
「ルキナ、もしもの話だけど……」
 そんなルキナの両肩にぽん、と手を置いて、僕はそっと囁く。
「英雄王とシュルクが未来を変えたら、かつて奴の器として生まれた僕はどうなっていたと思う? 普通の人間として、普通に生まれてくることができたと思うかい?」
「ルフレさん、それは……」
 僕とあの未来視の関係を話すべきか否かという問題以外にも、ずっとあの夢を見てから考えていたことがあった。
 それは、もしもの可能性の話だ。
 あの時代に生きる人間の代表として絶対に考えてはいけないこと。それでも、僕自身が抱えていたもののせいで、どうしても考えてしまう可能性の話だ。
 もしも僕達が彼らを止めることなく、英雄王とシュルクがあの未来視を元に未来を変えてしまえば、僕達の時代は確実に崩壊する。
 彼ら二人の望む世界――千年前に英雄王の国が邪竜によって滅ぼされることのない未来、そこに僕達の居場所はない。少なくとも、僕達が良く知るあの世界ではなくなるのは確かだ。
 だがその未来では英雄王が守った国は救われる。そして、
「わかっているよ。今の僕はそんなもの望んではいない。……例えどんなことがあろうと、あれは僕達の歴史なんだ。僕達はそれを絶対に守り通さなければいけない」
 邪竜の器として生まれてくるはずだった僕も、その未来では救われるかもしれないのだ。





「……君か」
 あの日――英雄王が未来を知り、それと同時に未来の自分の存在も知ったあの時と同じように、中庭に足を踏み入れれば、あの時と同じようにベンチに座った英雄王が、僕を見て優しく微笑む。
 あの時の、耳よりも僕やシュルクの心を引き裂かんばかりの叫び声を思い出したが、穏やかに笑う英雄王の笑顔を見て、すぐにそれもどこかに消えてしまった。
 こうしてあの未来を知ってしまった上でも尚英雄王が穏やかな心持でいられるのは、やはり僕達の持つ知識とシュルクの見たものが奇跡的に噛み合ったおかげだ。
 僕達だけではこうはならなかっただろう。シュルクには本当に、どれだけ感謝しても足りない。
「英雄王こそ、どうしたんですか」
「少し、考え事をね。……シュルクの機械弄りを見るのも好きだけど、たまにはこういう時間も欲しいんだ」
 いつもならばここ最近の英雄王は、シュルクと一緒に居るはずだ。瓦礫の山の近くにあった、小さな椅子と読みかけの本を思い出す。
 シュルクはあの場所で英雄王を待っているのかもしれないと一瞬思ったが、彼のことだ。一度機械弄りにのめり込んでしまえば、マルスが居ないことにも気づかないままかもしれない。
「あの日からずっと考えていたんだ。……僕は一度、アリティアに戻ろうと思う」
「自分の国に、戻ってしまうのですか?」
「ああ、違うんだ。用事を済ませたらすぐにこっちの世界へ戻ってくるよ。ただ……」
 そこまで言いかけた英雄王が、そっと北の青空を仰いだ。
「星が見たいんだ。僕達の世界の星空を、星座を……いつか僕と同じ名前になる、あの星を。この目でちゃんと見ておきたいんだ」
「導きの星『マルス』ですね」
「僕の時代では、まだそう名付けられてはいないけどね」
 英雄王と同じように僕も北の青空、――日が沈めば、あの星が見えるであろう方角を見つめる。
 僕達の世界には、天の北極にあるひとつの星があった。
 その星はいつ何時でも夜空の決まった位置にある。それゆえその星を頼りにすれば、暗い道でも道に迷うことなく歩けるのだと、いつの時代でも大事にされ続けてきた。
 僕達の時代でその星は、英雄王と同じ名前で呼び親しまれている。
 英雄王の時代ではそう呼ばれることは無かったどころか、そもそもその星にだけ名前が無かったそうなので、僕もいつ頃からそう呼ばれるようになったのか調べてみたが、詳しいことはわからないままだった。
「あの星をこの目でちゃんと見て、勇気を貰いたいんだ。君達の時代に生きる僕に、相応しい人間になるために」
 ただわかることがあるとするならば、あの星は誰にとっても大切であるがゆえに、誰かが勝手に名前を付けてはいけない。
 そう英雄王の時代で言われていたからこそ、誰にとっても大切な、英雄と同じ名前にすべきだ。かつてそう考えた人が沢山居たという証であり、あの星が僕達の世界の夜空にある限り、英雄王は永遠に人々の救いであり続けるということだ。
 あの日の英雄王はそうして人々の救いとなった未来の自分を知り、シュルクの未来視を通じ自分の想いが受け継がれていく様子を知ることで、その心は確かに救われた。
「……ルフレ」
「何ですか?」
「僕は皆で守ったあの大陸を、君達に託したいんだ」
「僕達に、託す」
「そうだよ、君達なら、きっとあの大陸を正しく導いてくれるはずだ。……だから、君達になら未来を託せる。僕はそう思うんだ」
 ……今のこの人は何も知らないとはいえ、なんと皮肉な話だろう。あまりの滑稽さに思わず変な笑い声が出てしまいそうになるが、それを何とか抑え込む。
 きっと英雄王の中での僕は、ルキナと共に大陸を絶望の未来から救った英雄の一人なのだろう。
 そしてルキナや仲間たちも、きっとその通りだと言ってくれるだろう。……それでも。
「英雄王」
 英雄王は今とても穏やかな心持でいる。たった数日前に自分の国が滅ぶ未来を知ったのに、だ。
 そしてそれは、永遠に人々の救いとなった自身の未来の姿という、まだ綺麗な事実しか知らないからに過ぎない。今から僕が口にする事実を知れば、英雄王はまた取り乱してしまうに違いない。
「貴方にはまだ、ひとつだけお話していないことがあります。あの未来視と僕達の、もう一つの繋がりについて」
「君と、あの未来視の繋がり……まだ何かあったの?」
 それでも僕は、話さなくてはいけないのだと思う。例え僕が話したくないと思っていても、英雄王との関係を壊しかねないとわかっていても。
 僕と、あの未来視の繋がりについて。
 僕は、ルキナと共に大陸を絶望の未来から救った英雄の一人などではないということについて。
「以前お話したとおり、およそ千年前に初代聖王に封じられた邪竜が僕達の時代に蘇ってしまったことで、僕達は二つの時代と大陸の平和をかけた戦いに巻き込まれました。そしてその邪竜はシュルクがあの日見た未来に現れ、貴方が守った国を滅ぼしている」
「その邪竜を封じたのが、僕の子孫であり、ルキナの先祖である初代聖王……そうだろう?」
「ええ。千年前に封印されたはずの邪竜は、長い長い時間をかけて徐々に力を取り戻していきます。しかし邪竜が完全に蘇る為には、その力と魂を納めるための器が必要でした。その器は禍々しい血と紋章を受け継いだ人の子でなくてはならず、邪竜を崇める教団ではその器に相応しい子供を作るべく、口にするのも悍ましい儀式が行われていたと聞きます」
 僕の話を聞いていた英雄王が、途中で何かを察したのだろう。
 その顔がどんどん青ざめ、険しいものへ変わっていく。
「ルフレ……それはまさか?」
 そこまで言いかけて、英雄王は口籠ってしまう。しかし英雄王が何を訪ねようとしていたのかなど、既に何も言われずともわかっている。そして英雄王が、これから僕の話す真実を、嘘であってほしいと願っていることも百も承知だ。
 それでも僕は、真実を話さなくてはいけない。一度深呼吸をして息を整え、自らの胸に手をあて、
「ええ、そうです……僕こそが、その邪竜の器。あの未来視で貴方の国を滅ぼした邪竜の血を引き、ルキナが生きた未来であの大陸を絶望に陥れたのは、紛れもないこの僕です」
 そして僕は、英雄王に全てを話した。
 あの未来視と僕達の最後の繋がりを、僕と英雄王の今までの関係を全て台無しにしてしまうであろう、僕の出生の秘密を。
「嘘、だろう……? 君みたいな人が、そんなこと」
 英雄王の青い瞳は揺れ、明らかに動揺しているのが手に取るようにわかる。
 僕はそんな英雄王の前に、すっと自らの手の甲を差しだして、
「嘘ではありませんよ。……かつてこの手の甲にはルキナの瞳のように、忌々しき血統を示す印がありました。その印は確かに僕を、あの邪竜の器であると証明していました」
「でもその印が消えてしまったなら、今は!」
「ええ、仲間たちのおかげで、僕の中から邪竜の力は消えてしまいました。……ですが僕が器としての役目を失おうと、僕にいずれ宿るはずだった力が貴方の国を滅ぼし、ルキナの未来までも滅ぼした事実に変わりはありません」
 ベンチに座っていた英雄王が立ち上がり、震えるその手で恐る恐る差し出された僕の手を握る。そして、英雄王は僕の手の甲をじっと見つめていた。
 その一方で僕は、あの日……記憶を失い行き倒れていた僕の手を取ってくれた、かけがえのない親友、クロムとリズの姿を思い出す。
 あの時僕の瞳に最初に映ったものは、クロムとリズの顔だった。そして次に映ったのは、起き上がらせようと僕の手を取るクロムの手と、この手の甲に刻まれたあの紋様。自らの名前と、剣と魔導書の扱い方以外全ての記憶を失っていた僕にとっては、あれが全ての始まりだった。
「どうして、君はそんなことを僕に教えようと?」
「正直な所、僕にもわかりません。最初はこのことだけは貴方に隠すべきだと、僕も考えていました。……ですが邪竜が貴方の国を滅ぼす未来をシュルクが見てしまったことで、僕の考えも変わったのだと思います」
 英雄王は、未だに僕が話したことの全てが受け入れられずにいるのだろう。実に複雑そうな面持ちで俯き黙り込み、ただ僕の手の甲を握っているだけだった。
 そうして暫くの間、かつて禍々しい紋様が宿っていた手の甲を、英雄王がそっと撫で続けていた。
 まるで今この時だけ手の甲にあの紋様が再び宿り、英雄王がそれを見ているようだとも、頭の片隅でぼんやりと考える。
「それなら……それならば君はどうしてあの日未来を変えることを止めようとした? もしも歴史が変われば、邪竜の器として生まれてくる君の未来だって変わったはず」
 突然、急に何かを思い出したように英雄王が顔を上げ、そう口にする。
 英雄王とシュルクが歴史を変えた先にあったかもしれない、僕があんな役目を負わずに生まれてくる可能性。
 勿論それは、英雄王に言われるまでもなく考えたことはあった。
「貴方の言う通り、確かに変わるかもしれません……ですが僕は、僕達の未来と仲間との絆のために、自分の歩んだ過去を否定したくはありません」
「たとえ君がこんなにも重い咎を背負うことになっても、かい?」
「僕はそれも受け入れるつもりです。そしてあの未来が変わらない限り、僕は貴方が憎むべき存在のまま変わらないのでしょう」
 瞳を閉じ、あの時代で共に戦った仲間たちの姿を、一人一人思い浮かべていく。
 もしも僕達があの未来を変えてしまえば、彼らの存在や努力は……そして僕と彼らの絆は、全て否定されてしまうのだろう。
 そんなこと、あっていいはずがないのだ。それがたとえ、自分が一生消えない咎を背負うことになろうとも。
 それにあの戦争の中で共に戦い、言葉を交わした彼らのことだ。きっと一生消えることのない咎も含めて、彼らは僕の存在を受容れてくれるのだと、僕はそう信じている。
 握られた手に力を込められる感覚に再び目を開けると、そこにはまるで縋るように僕を見つめ、先ほどよりも震えた手で、僕の手を握る英雄王の姿があった。
 ……これで僕は、話すべきことは粗方話せたと思っている。
 今英雄王が握る手の奥には、英雄王が最も憎むべきものの血がかつて流れていた。……その事実を、英雄王はどのように受け止めてくれるのだろう。
 僕としてはただ全てを知ってほしかっただけなので、僕という存在を許して欲しいなどとは、初めから考えていない。
「ルフレ」
 僕の名を呼ぶと同時に、英雄王がその手を僕から離した。
 平静を取り戻すべくゆっくりと深呼吸を重ねることで、大きく震えていた手が、肩が、瞳が徐々に元へ戻っていく。
 そして、英雄王がその手に力を込め、歯を強く食いしばるのが見えたその時、
「……!?」
 次の瞬間僕は左頬に鈍い痛みを受け、そのまま地面に倒れ込んでいた。
 何が起こったのかよく理解出来ないまま、英雄王が居る方向を見ると、悲しみや驚きではなく怒りに肩を震わせた英雄王の姿があった。
 ステージの上で互いに剣を合わせた時とはまた違った剣幕が見て取れ、そこから僕はようやく、自分が英雄王に思いきり殴られたのだと理解出来た。
「……この一回じゃ、全然足りない」
「英雄、王」
「あの時代に生きた民の絶望も、君やルキナの時代に生きた民の悲しみや苦しみも……僕の怒りも! もう一度殴るだけじゃない! 今ここで僕が剣を抜き君の体を引き裂こうと、それが晴らされることは絶対にない! ……でも」
 普段は穏やかに振舞う英雄王が、見たこともないような剣幕で怒っている。
 しかしその口から何か言葉を紡げば紡ぐほど、英雄王の手が、肩が、瞳が……そして声が大きく震えだしていく。
「だけど、僕個人の想いを口にしていいのなら、僕は……僕は……!」
 大きく震える拳は最早まともに手を握ることさえ叶わず、肩は酷い寒さに凍えているかと思えるように震えている。そして大きく震える瞳から一粒の涙が零れ落ち、全身の力が抜けたかのように、英雄王が僕の前で両膝をついて、
「君でよかったと思うんだ」
 英雄王の震えた声が耳元に届くと同時に、地面に情けなく膝をついていた僕は震えるその腕でそっと抱きすくめられる。
 先程思いきり殴られた時と同じように、すぐに何が起きたのか理解できなかった僕は、呆気に取られたまま動けなかった。
「邪悪な血を受け継ぎ、人々の恨みをその心に背負いつつも、君はそれを仲間と共に乗り越えようとしてくれた。進んでその咎を受け容れてくれた。邪悪な力を宿した君には、同時に勇気と正義の心もあったんだ。これはきっと、君でなければ出来なかったことだ。だから僕は……君でよかった。そう思う」
 やはり英雄王が何を言っているのか、そして僕は何を言われたのか、すぐには理解が追い付かなかった。
 ただ最初に感じたのは、英雄王の瞳から零れ落ちた涙が、僕の肩を濡らす感覚だった。
 その感覚はじわりじわりと緩やかに広がっていき、肩の皮膚を通して体内にも染み込んでいくように感じられた。
 そして、その感覚が心臓に届いたその瞬間、僕は全てを理解出来た。
「ありがとう、ルフレ」
 英雄王は、僕を許そうとしてくれているのだ。
 僕と、僕の中にかつてあった力は、英雄王が憎むべきものだ。そして英雄王は実際にそれを強く憎んでいる。その剣で斬れるなら斬ってしまいたいと強く願うほどには。
 それでも英雄王は、自らの心にある憎しみを飲み込み、受け容れた上で、こんな僕を許そうとしている。こんなこと、誰が予想できただろうか。
 ゆっくり、ゆっくりと腕を伸ばし、僕を抱きすくめる英雄王の背中に手を回す。英雄王は、僕の腕を拒まない。
「……僕は今、改めて理解できました」
 背中に回した腕に少しだけ力を込めると、同じように英雄王も腕に力を込める。
 そこで改めて、英雄王が僕を許そうとしてくれているのだと理解出来た。
「英雄王マルス、あなたという存在が二千年の時を経てもなお、人々にとっての救いでいられた理由が」
 少しだけ目の奥が熱くなり、そっと目蓋を閉じる。
 すると目蓋の裏には慣れ親しんだ、僕達の世界の夜空が浮かび、――その中心には、英雄王と同じ名を持つあの星があった。
 やはりこの人は、あの星に相応しい。
 あの星はどのような人間であろうと、道に迷った時には等しく手を差し伸べ、正しい方向へ導いてくれる星だ。
 外見も身分も、生まれ持った定めさえも関係ないのだ。あの世界に生きる全ての人間が、あの星にとっては救い、導くべき存在だった。
 ……今目の前にいる人もそうだ。こんな僕でさえも救い、導こうとしている。
「僕は貴方の星から、最も遠い場所にいる存在だと思っていました。貴方の星の光は、僕には届かないのだと。僕は貴方が憎むべき存在で、救ってもらえると思うこと自体がとても烏滸がましい行為なのだと」
「そんなの関係ない。……僕は、君も救いたいよ」
「ええ、そうですね。星はどんな人も等しく照らし、その輝きで導いてくれている。貴方もそうだった。……貴方はこんな僕でさえ受け容れて、許そうとしてくれている」
 英雄王の背中に回した手を離し、僕は膝をついた体勢からゆっくりと立ち上がる。それに続いて英雄王も立ち上がり、お互いにじっと見つめ合う。
 僕の前に立つ英雄王は、とても穏やかな顔で微笑んでいた。先ほどまでの動揺した表情や、あの涙が信じられなくなるほどには。
 きっとこの微笑みを知る人が、あの星にこの人と同じ名を付けようと思ったのだろう。いずれ英雄王が亡くなり、この微笑みが失われても、微笑みが星の輝きに変わり、誰かを救い続けてほしいと。
 微笑むその瞳の奥に、僕は、
「英雄王。やはり貴方は永遠に人々の救いであり、導きの星なんだ」
 星の輝きを見た。
 導きの星の輝きを。
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